《もぐら横丁》の幸福

午前中は大谷晃一『織田作之助 生き、愛し、書いた。』(沖積舎)の残りを最後まで。織田作の作品と並行して読むことで、いろいろ判ったコトが多い。


関係ないけど、織田作を読んでいて初めての言葉を知った。『六白金星』に、主人公が「テンプラらしき大学生の男」にカツアゲされるシーンで「鮮やかなヒンブルであった」とある。まだ読んでないけど、長編『夜光虫』には以下の描写がある(青空文庫より引用)。

同じ仲間の「ヒンブルの加代」と異名のあるバラケツであった。
 バラケツとは大阪の人なら知っていよう。不良のことだ。
 しかし、ヒンブルの加代は掏摸はやらない。不器用で掏摸には向かないのだ。
 彼女の専門は、映画館やレヴュー小屋へ出入するおとなしそうな女学生や中学生をつかまえて、ゆする一手だ。
 虫も殺さぬ顔をしているが、二の腕に刺青があり、それを見れば、どんな中学生もふるえ上ってしまう。女学生は勿論である。
 そこをすかさず、金をせびる。俗に「ヒンブルを掛ける」のだ。

 ヒンブルを掛ける、というのが面白いなあ。


3時に出かけて、〈フィルムセンター〉の新東宝特集へ。日曜だからか、作品が珍しいからか、満席に近い入り。清水宏監督《もぐら横丁》(1953)。尾崎一雄の原作を清水と吉村公三郎が脚色。尾崎原作の《愛妻記》(1959)では、主人公の緒方一雄と芳枝夫妻をフランキー堺司葉子が演じていたが、この作品では佐野周二島崎雪子だ。体格も良く血色のよすぎるフランキーより、情けない感じの佐野のほうが適役だ。島崎雪子も明るくとぼけている若妻を好演。そこに、粘着質の大家(日守新一)や勝手に佐野の名前を広告に使う売薬屋(森繁久彌)らのアクのつよいキャラクターがからむ。全体的に、尾崎一雄の持ち味を生かそうとした映画になっていて、あくどすぎないユーモアが漂う。場内は冒頭から笑いが絶えなかった。子供の出産にかこつけて病院に住みこんだり、そこから追い出され、まだ話の付いてない貸家に入り込んだりする、いまでは考えられない暢気さがよく描かれている。観終わって、ほのぼのと幸せな気分になった。


銀座線で上野広小路に出て、〈珍満〉でビールとタンメンを食べて帰る。映画の余韻がまだ残っていて、尾崎一雄の全集を引っ張り出して、『もぐら横丁』を探す。映画はこの前の時代を描いた『なめくじ横丁』とを合わせ、一つの場所に設定している。映画に出てくる、伴克雄(檀一雄)の家は上落合二丁目で、尾崎曰くの「なめくじ横丁」。そのあとに引っ越した下落合四丁目が「もぐら横丁」だ。映画には友人の文士として、深見喬(浅見淵)、古井松武(古谷綱武)、早瀬稀美子(林芙美子)らが出てくるが、古谷が近所にいたのは「なめくじ」で、林芙美子のほうは「もぐら」である。なお、映画には尾崎志郎、丹羽文雄檀一雄が特別出演しているらしいが、どれかは判らなかった。


映画では小事件が次々に起きるが、その大半は原作にあるエピソードを下敷きに、映画らしくつくっている。広告文に勝手に名前を出されたのは原作にあり。ラジオがうるさくて仕事にならないのは、原作ではシェパードの鳴き声。林芙美子がラジオをあげると云ってくれたのに、見栄を張って持っていると云ったために古道具屋で買うはめになる件は、ラジオを炬燵に換えれば原作通り。芳枝が赤ん坊の鼻をつまんで乳首を離させたのを、古谷夫妻がまねて遊ぶ場面もほとんどそのまま。もっとも、芥川賞を受賞するのは、映画で描いた時期より3、4年のちのことだ。


尾崎は最初の映画化である島耕二監督《暢気眼鏡》(1940)については、杉狂児の演技が気に食わないと否定的だったが、本作はどう観たのだろうか? 全集にそういうことを書いた文章がないかとざっと見てみたが、見つからなかった。


ちなみに、萩原朔太郎の妻・稲子は、馬込文士村で出会った若い男とできてしまい、離婚、その後、喫茶店のママになるのだが、『もぐら横丁』(小説の方)によれば、中井駅近くの〈ワゴン〉という店だったそうだ。