『雑談王』と「バラエティ・ブック」(雑文集)

昨夜、『雑談王 岡崎武志バラエティ・ブック』(晶文社)を読了。まえがきの「なんとなくジャズ・ミュージシャンはみな鬼籍に入っているような錯覚」という一文で、そうそうと思う。あとがきにあるように「放課後の雑談」の中で出てくるような鋭く、共感をもたらす指摘だ。この一文でスッと本文に入って行けた。テーマごとに章を4つ立て、あいだに短いコラムと対談を入れている。『sumus』掲載文など半分ぐらいは読んでいると思うが、『月刊生徒指導』の一箱古本市についての文などは知らなかった(教えてもらって忘れてたかも)。いちばん古いのは1987年、『海浪』のディック・フランシス論だが、いまの文体とかなり隔たりがある。いまならぜったい使わないだろう表現も出てくる。バラバラに書かれたものをまとめた本では、このように書き手の過ごしてきた時間がにじみ出てくることがある。


本書が「バラエティ・ブック」であることについては、多くの人が書いているが、「空想書店 書肆紅屋」(http://d.hatena.ne.jp/beniya/20080915)さんの以下の文が、ぼくの感想を先取りしてくれている。

『雑談王』を読み終わって感じたのは、コラム、エッセイ、対談などが入っているA5判の本だからバラエティ・ブックだというわけではないこと。そこには、本全体の構成力、全体の流れや組版など編集力も大事なことがわかってきた。その点で『雑談王』は、晶文社らしさを感じさせてくれた。


そうなのだ。バラエティ・ブックは「雑文集」と言い換えてもいいと思うが、この種の本は連載をまとめた本などと違い、著者と編集者の共同作業の面がつよい。もっと云えば、イラストレーターや装幀家までを共犯関係にしての共同作業だ。ちょっと方向を変えれば全然別の目次になってしまうのだが、それでもこの構成がベストだと云い切れる力強さが、バラエティ・ブックには求められる。


先日、高崎俊夫さんのトークでも話題に出たが、編集者はそれぞれ自分なりのバラエティ・ブック(雑文集)のスタイルを持っている(あるいは持っているべき)だと思う。高崎さんの場合は、宇田川幸洋『無限地帯』(ワイズ出版)や『中条省平の秘かな愉しみ』(清流出版)がそれにあたり、ぼくなら、塩山芳明『東京の暴れん坊』(右文書院)や『海野弘 本を旅する』(ポプラ社)がそうなるだろう。「晶文社のバラエティ・ブック」を真似るだけが能ではないのだ。その意味で、岡崎さんのこの本は、晶文社バラエティ・ブックへの敬愛は感じられるが、過度に模倣してはいない。それでイイのだと思う。


先の宇田川幸洋『無限地帯』のあとがきをちょっと引用しておく。

はじめ、ぼくはその【高崎氏が立てた方針による】ならべかたの意味がまるでわからなかった。つい最近、再校のときに、全部順序どおりに読んでみて、やっとそのたくらみがわかった。(略)
普通、編集者は最初の読者である、ということはよくいわれるけど、この本では、編集者のたくらみによって、著者が最初の読者にされてしまった。


もちろん、これは編集者が好き勝手にやっているということではない。著者が編集者を信頼して任せるだけの度量があり、出来上がった構成に「新たな自分の可能性」を見出すことができる能力を持っていて、初めて可能になることなのだ。『雑談王』のあとがきにも、「一冊本をまとめることは、じつは著者への一番の刺激となるのだ」という述懐があった。


ところで本書には、ぼくの名前も出てくる。二カ所あるのだが、それぞれペンネームと本名だ。判る人には判る、という感じで、ちょっと嬉しくなった。


7時半起きで仕事場へ。打ち合わせの準備。9時半に出て、東銀座のYさん事務所。ポンポンとアイデアが出て、かなりのところまで固まる。終わって、銀座六丁目の〈ギャラリー アーチストスペース〉へ。ここで「鬼放展 ダダカン2008 糸井貫二・人と作品」が開催中なのだ。ダダカンについては、竹熊健太郎の名著『箆棒な人々』(太田出版、現・河出文庫)で知り、その後、仙台の一箱古本市で「ダダカン本」を出品している箱から、ダダカンの記事が載った『美術手帖』を買った。しばらく前に、「ダダカンの展覧会を企画している」という方からメールがあり、その『美術手帖』を貸してほしいと云われたのだが、ちょうど「けものみち」リニューアルの最中で見つからなかった。


そんなわけで、楽しみにしていたのだが、期待は裏切られなかった。あまり広いとはいえない会場のあらゆる壁面や平面に、ダダカンのパフォーマンスの写真やメールアート、覚書などが展示されている。裸パフォーマンスに使うペニスキャップがガラスケースに入っているのがほほえましい。秋山祐徳太子をはじめとするアーティストがダダカンに捧げる作品を出品している。1965年に精神病院から退院するときに、医師に出した誓約書の一項に「一、創作出品はせず観る丈にいたします」とあるのがなんか泣かせる(しかし、その後40年以上も「創作出品」を続けており、観るだけの立場にはいまだなっていない)。もうひとつ、以下のメモ(1960年)も心にしみた。

先生につけば ほめられたくなり
弟子をもてば きどりたくなり
やはり ひとりが なんでも やりたい事が
思いきり できそうだ


芳名帳に名前を書くときに、ぼくの前に「高熊洋平」という名があった。仙台の一箱でダダカン本を出し、その後〈書本&cafe magellan(マゼラン)〉(http://magellan.shop-pro.jp)をオープンした人だ。こんどの「BOOK BOOK SENDAI」のメンバーでもある。会場でバッタリ出会えたら、おもしろかったのだが。


高円寺でも第二会場として展示しているというので、丸の内線で新高円寺へ。〈Para GLOBE〉での展示を見る。こちらはメールアートが中心だ。今回の展示は両会場ともレンタルスペースで行なわれており、充分な広さがあるとは云えない。それに統一的なサイトもないので、情報を把握しづらい。第一会場は20日(土)まで、第二会場は27日(土)までやっているので、検索して足を運んでください。それにしても、12日(金)に浅草〈木馬亭〉でやった「ダダカンシンポジウム」を見逃したのは惜しかった。


バスに乗って阿佐ヶ谷駅へ。南口の〈阿南古堂〉の並びの店が軒並み閉まっているので、不審に思ったら、再開発されるらしい。〈阿南古堂〉も5月に閉店していた。阿佐ヶ谷ロフトのトークのときに寄ったのだが、その後は開いてなかった。たんに休みかと思っていたのだが。この店でバイトしている助教授も教えてくれなかった……。赤羽に移転と貼り紙にあったが、店売りは続けるのだろうか?


〈書楽〉で、大阪オールスターズ編著『大阪呑気大事典』(宝島文庫)、門倉貴史『偽造・贋作・ニセ札と闇経済』(講談社文庫)、三津田信三『凶宅』(光文社文庫)を買う。〈ラピュタ阿佐ヶ谷〉で次の回のチケットを買い、久しぶりに名曲喫茶ヴィオロン〉で時間をつぶそうと思ったら休み。仕方ないので、北口の古本屋を2軒見て、アーケードの喫茶店で書評の本を読む。ラピュタに戻り、鈴木英夫監督《黒い画集 第二話 寒流》(1961)を観る。先日この映画のことをヒトと話したときに未見だと云ってしまったが、前に観てました。そのせいでもないが冒頭から熟睡。おもしろい映画だとは思うが、池部良があまりにも身勝手なので、どんな目にあっても同情する気になれない。西日暮里に帰り、ゲラ戻しや書類づくり。雑用がなかなか途切れない。


神戸〈海文堂書店〉で以下のサイン会があります。

佐野眞一さん トーク&サイン会


と き : 2008年10月2日(木)  午後5時半〜6時半
ところ : 海文堂書店 2F・ギャラリースペース <Sea Space>
入場無料


★佐野さんが精力的に取材・執筆されています【 満州と沖縄 】をテーマにお話しいただきました後、サイン会をおこないます。


佐野眞一さんの近著
『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(集英社インターナショナル/1,995円/2008年9月26日発売)
甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社/1,995円/2008年5月発行)
『阿片王 満州の夜と霧』(新潮文庫/820円/2008年8月発行)


佐野眞一(さの・しんいち)
1947年、東京生まれ。1997年、『旅する巨人』(文藝春秋)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。著書に『宮本常一のまなざし』(みずのわ出版)、『だれが「本」を殺すのか(上・下)』(新潮文庫)、『響きと怒り』(日本放送出版協会)、『枢密院議長の日記』(講談社現代新書)など。


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