手仕事に向かない男

朝から事務所で『積んでは崩し』の発送作業。納品書を書いたり、ちょうどいい大きさの封筒を探したり、住所を書いたり、切手を貼ったり。苦手なんだよなー、こういう手作業。以前ある版元にいたときも、献本の封入とか宛名書きとかがあまりにもヘタなのをみて、自主的に手伝ってくれる女性が数人いた。ちょっと段取りが狂うとイライラしてしまうのだが、それに拍車をかけるのが、サイトに郵便番号を明記してない店。今回も複数あり、郵便局のサイトで検索しなければならなかった。最近では宅急便にも明記を求められるのに、なぜサイトに載せないのかフシギ。この先変わるのを心配してるのか(そうなったら変更すればいいだけ)、それともナニかのポリシーなのか? 自分たちだって、郵便や宅急便を送るときに相手の郵便番号が判っているほうがラクだと思うんだけど。


ちなみに、今日の発送分で増刷分は手元に20部ほどしか残らない。いま納品されている分が精算されるまで、増刷するつもりはないので、お店でお買い求めください。塩山芳明御大の以下の「愛ある鞭」をおしいだき、地道に生きていくつもりです(それにしても、塩山さんにかかると、セドローくんってフィクサーみたいだね)。

自分のミニコミの200部増刷にはしゃぎまくる、西日暮里の眼付きの悪いパンダ(モクロー種)にガツンと一発左ストレートパンチをと、高田馬場ジャイアントパンダセドロー種)に頼まれたが、そもそも知人の悪口を書くのは趣味じゃないし、放っといても“第2のトートバック”と化すのは自明だと、今の所は優しく見守る事に。


12時半に出て、小川町へ。〈アツマル〉でカレーうどんを食べ、〈三省堂書店〉でOさんに『積んでは崩し』を納品。コレでいちおう収まるべきところに収まった。新刊の百瀬響『文明開化 失われた風俗』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)を買う。明治初期の風俗統制の実態を、その法令である「違式詿違(イシキカイイ)条例」から描こうとするもの。懐かしい。というのも、ぼくの修士論文はまさに「文明開化期の風俗統制」というテーマだったのだ。各県の違式詿違条例や庶民に周知させるための「図解」もずいぶん探して読んだなあ。構想は壮大だったが、500枚近く費やして結論めいたものが導き出せなかった。いまになってみれば、博士課程に行かなくて(試験に落ちたから)よかったよ。自分がとても学界で生き残っているとは思えないよ。百瀬氏が違式詿違条例についての論文を発表しはじめたのは、ぼくが修論を書いたあとなので、その後どんな見解が生まれているのか、読んで確かめたいと思う。


半蔵門線の車内で、「アミューズメントメディア総合学院」の広告を見て、噴き出しそうになる。「本校の卒業生」として活躍している一人、ゲームクリエイターのなんとかさんが、〈立石書店〉の牛イチロー先生にうりふたつなのだ。笑い顔が他人とは思えない。「わめぞ」メンバーはチェックすべし。


渋谷へ。今日も〈シネマヴェーラ渋谷〉。毎日来てるので、さすがにちょっと疲れてきた。一本目の山田勇男監督《蒸発旅日記》(2003)は、冒頭のクレジットが逆さ文字になっていて映写ミスかと思うが、そのうち意図的だと判る。しかし、物語に没入できぬままに30分近く爆睡。つげ義春の原作を幻想的に撮っても映画としては成立しにくいのでは、と思った。二本目は、寺山修司監督《草迷宮》(1978)。同じく幻想的な作品だが、こっちは眠らずに観た。なによりも40分という短さが利いている。コレぐらいなら、どんなややこしいシーンを織り込んでも客がなんとかついてこれるということを、寺山は計算していたのではないか。今日はもう一本、水谷俊之監督《スキャンティドール 脱ぎたての香り》(1984)も。コレが意外な拾いモノだった。ランジェリー喫茶なるものオープンさせる小田かおる、その父で下着職人の大杉漣、喫茶の客で下着泥棒の上田耕一と、なんだかヘンなものにとり憑かれた人たちを描いている。脚本は周防正行。ペラペラのシンセを多用した音楽が、画面にピッタリ合っていた。にっかつロマンポルノは代表的な作品は観たつもりだが、まだまだオモシロそうなのが残っていそうだ。


先日、谷根千工房に行ったとき、旧安田邸での販売で売れ残った鈴虫を一籠買ってきた。ナカには4匹入っているが、これがいい声で鳴く。ナスとニボシが好物だということで、数日経つとナスが食い散らかされて穴が開いている。意外に食欲旺盛なのだ。今朝、代わりを入れてやると、さっそく群がっていた。鈴虫の声を聞きながら原稿を書くのは、けっこういい気分。


以上をアップしてウチに帰り、少し文章を足して更新したら、全部文字化け。こんなことは初めて。