彦次郎さんが書いた『万太郎 松太郎 正太郎』

朝8時起き。旬公と団子坂下の〈ドトール〉で朝飯。図書館で借りた、門井慶喜『天才たちの値段』(文藝春秋)読了。謎の解決が判りづらい(専門的なので)ところはあったが、オモシロイ。〈往来堂書店〉で、山田風太郎『わが推理小説零年』(筑摩書房)、滝山正治『東京文学散歩 上野・谷中・本郷・浅草・隅田川界隈』を買う。後者は地元の高校の先生の自費出版


千駄木へ。今日はやたら電話が鳴る。メールのやり取りも多い。某誌から「けものみち計画」の二人への連載依頼あり。こないだから「こういうのできたらイイねえ」と話していた、そのものズバリだったので、驚いた。「これまでにやった仕事」ではなく、その人に「これからなにをやらせたいか」という発想で依頼してくれる編集者は、本当にありがたい(稀少という意味と、感謝という意味で)。先日、この雑誌にピッタリだと思って提案した企画が却下どころか、2週間経っても一言の返事もないという状態(よくあることだが)に、いささか落ち込んでいたので、コレは嬉しかったな。帰ってきた旬公に話し、スグに承諾のメールを書く。


大村彦次郎さんから新刊『万太郎 松太郎 正太郎 東京生まれの文人たち』(筑摩書房)を送っていただく。久保田万太郎川口松太郎池波正太郎の三人を論じたものだと思ったら、ほかにも、水上瀧太郎広津和郎をはじめ、東京の下町・山の手生まれの文人を取り上げていた。云ってみれば、大村さんの文壇三部作の東京篇だ。読むのが楽しみ。ちなみにカバーに使われているフシギなイラスト(擬獣?)は、池波正太郎の手になるもの。


万太郎・松太郎・正太郎―東京生まれの文士たち

万太郎・松太郎・正太郎―東京生まれの文士たち

週末の古書展にはひとつも行けず。目録注文の、石井研堂『独立自営 営業開始案内』第二編(博文館、大正2)は8000円だったが、「新古書籍業、新聞雑誌取次業、絵葉書絵双紙業、」貸本業の巻なので。『勝呂忠の世界』(池田20世紀美術館)1500円は、宮田昇『新編戦後翻訳風雲録』(みすず書房)の早川清の項で、ポケミスの勝呂忠の装幀原画の所有権をめぐる騒動が記されていることもあって。


昨日五十嵐さんから借りた、田川律『家族ってなんや』(早川書房)読む。田川さん自身の「家の履歴書」。住む家と家族のかたちが結びついている。小さな発見も多く、土曜日のトークでいろいろ尋ねたいコトが増えた。ヒナタ屋のトーク、いまのところ予約は10人ほどだそう。もう少し増えてくれるといいカンジなので、予約をよろしく。「ウィークエンド・ワセダ」のあとで寄ってくれると、ちょうどいいコースなのですが……。その「ウィーワセ」(不自然な略称だ)の首謀者、セドローくんの日記(http://d.hatena.ne.jp/sedoro/)がいい。「わめぞ」もそうだが、彼は直前に、読んだら必ず行かねばならない気にさせる名文をアップするのだ。次の一文には、激しく共感する。

今、「新しい」というと、古いものを切り離して同じような世代、同じような感覚の人が集まって行う、という感じがある。でも、自分は地味な道だけど、古いものの上に、少しずつ砂を盛るような、そういう「新しさ」を求めて生きたいと思っている。「古いもの」を「新しいもの」の、どの位置に「つけるか」。違和感があるものとも向かい合って自分の意見を言い、何かをやっていきたいのだ。


ぼくも、一箱古本市などの古本イベントをやっているが、それは「新しいもの」の優位を強調するためでなく、これまで古本屋からこうむってきたことへの感謝を、ぼくなりにカタチにしているつもりでいる。「古いもの」を壊すために「新しいもの」を生み出すんじゃなくて、「古いもの」のいいところを次の世代に手渡していくために、シロウトの立場でなにかやっていけたらと思うのだ。だから、こんど「ウィーワセ」でご一緒するワセダの古本屋の皆さん、「若い人だけでやりたいのに参加しちゃったら悪いかな」なんて思うこと、まったくナイですよ。むしろ、セドローくんの頭の中では、「古本けものみち」や「火星の庭」のほうが、このイベントの「当て馬」(もしくは「かませ犬」)なのですから。


7時から〈古書ほうろう〉で近藤十四郎さんのライブ。入ったら、もう始まっていた。客は50人ぐらい。ベースの尾形慶次郎さんとのデュオ。ぶんぶん唸るベースに、近藤さんのふわふわした声が乗るとフシギにいいカンジ。後半がとくにヨカッタ。8月22日(水)にもこの二人のライブがあるので、今日見逃したヒトはぜひどうぞ。西日暮里に戻り、片づけしてから千駄木へ。久しぶりに旬公のつくった晩飯を食べる。フランシス・コッポラ監督《カンバセーション…盗聴…》(1973・米)。ジーン・ハックマン主演の静かなサスペンス。オモシロいけれど、全体の3分の2は静かなので、眠くなった。