こほろぎなんかのことを

8時半起き。午前中は資料読みと、不忍ブックストリートの文書作成。昼はうどん(とろろと卵を混ぜるとウマイ)。午後は『進学レーダー』の原稿。けっこう手間取って、4時半に完成。時間を気にしながら、出かける。


下北沢に着いて、早足で〈シネマアートン下北沢〉へ。浜野佐知監督作品《こほろぎ嬢》の上映が、今日のこの時間で最後なのだ。脚本の山崎邦紀さんからチケットを買っていたのだが、今月の初めは調子が悪く、そのあとは旬公との都合が合わず、こんなギリギリになってしまった。会場は満員で、補助席が出ていた。別の用事があった旬公は、上映が開始されてから到着したもよう。


《こほろぎ嬢》は尾崎翠の短編三つを題材にしたもので、《第七官界彷徨》で尾崎翠の生涯を描いた浜野=山崎コンビが、尾崎翠の作品世界に踏み込んでいる。空想に浸りがちな少女(石井あす香)が出てくる前半が、すごくイイ。登場人物のコトバが相手に向かって発せられず、会話は、ひとり語りや手紙の本の朗読を通して行なわれる。相手を呼ぶときも「きみ」ではなく「おばあさんの孫娘」と呼んでいる。面と向かっているのに、コミュニケーションが成立していない状態。演劇はそういう関係性を見せるのにふさわしい芸術だが、これを映画でやろうとすると、どうしても不自然に見えてしまう。前作《第七官界彷徨》でも、そういうワザとらしさが鼻についた。しかし、本作では、冒頭の老婆(大方斐紗子)をはじめ、役者の演技とセリフが、映画の世界にピタッとはまっている。


登場人物は、すべてが非日常的な空想に浸りがちで、まともに生きることができないでいる。生身の身体を持ちながら、リアリティがなく、浮遊している状態。それを無理なく「絵」として見せてくれるのが、鳥取の古い街並みや建物だ。実在の建物のなかに、非現実的な登場人物たちを置くことで、リアルとバーチャルが溶け合っている。ただし、鳥取ロケのすべてが成功しているわけではなく、図書館の書庫はそんなに古く見えないし、洋館のシーンはいかにも文化財をお借りして取りましたというカンジがある。


前半を見ているだけでなんだか幸せな気分になり、途中、15分ほど寝てしまった。その後、少女に代わって「こほろぎ嬢」が登場し、これまた、妄想の世界に浸る。彼女は、産婆の勉強をする女性を眺めて、「私はいつでもこほろぎなんかのことを考えている」「かすみを食べて生きていきたい」と考える。でも、じっさいにはその日のパンのことを考えずにはいられないわけで。映画では、この難問へのある解決策を示して終る。


脚本も演出もあまりヒネらずに直球なところがいい。ひとつもギャグがなく、笑うところもないけれど、見終わってなんとなく微笑が浮かんでくるような映画だった。90分という長さがちょうどイイ。鳥取ロケが見事に成功した「山陰映画」でもある。寝てしまった部分も含めて、そのうちもう一度観てみたい。


終って、トークがあるようだったが、山崎さんに挨拶して旬公と外に出る。千代田線と日比谷線を乗り継いで、三ノ輪へ。青柳さんに電話すると、〈遠太〉にいるという。腹をすかしている旬公に、おばあさんが一人でやっているから、つまみをたくさんは頼めないよ、と云うと、ナニか食べていこうというので、閉店間際のそば屋に入り、鴨南蛮を食べる。人心地つけてから〈遠太〉へ。青柳さんと、濱田研吾・藤田加奈子夫妻がいる。ハマダ・フジタの会話を聞いていると、出てくるキーワード一つ一つに反応していて、お互いのやってることへの興味の高さが感じられる。その辺が、互いに無関心の部分も多いウチとの違いだな、とあとで旬公と話す。


10時に解散して、日比谷線仲御徒町で降り、湯島から千代田線に乗って、千駄木へ。旬公が〈ブーザンゴ〉に放置した自転車を拾って帰る。《プリズン・ブレイク》1話と《タモリ倶楽部》を見てから、寝た。


では、最後に「路上派少年遊書日記――1981年・出雲」を。

1981年4月2日(木)
★坂本(もげ)に『ナイン』第1巻を貸したら、すばらしいと喜んでいた。第2巻を手に入れたい。


★4月3日(金)
今日参考書を買いに行き、『ナイン』第2巻を見つける。早速読む。すばらしい。


だんだん記述が投げやりになってきました。