海野×岡崎トークを堪能する

kawasusu2006-12-08

8時半起き。今日は真珠湾攻撃の日、ジョン・レノンの命日、そしてウチの弟の誕生日。朝飯のあと、打ち合わせのための資料をつくったり、本を読んだり。2時に出て神保町へ。〈書肆アクセス〉の前で塩山芳明御大にバッタリ。『本の雑誌増刊 おすすめ文庫王国2006』の文庫ベスト10の10位に『出版業界最底辺日記』が入ったというので、「お情けで10位に入れてもらってもしゃあねえヨ」と云いつつ、口元はだらしなく弛んでいた。また、『週刊読書人』の今年の収穫3冊でも、『最底辺』を堀切直人さんが、『路上派遊書日記』を枝川公一さんが挙げていた。高倉美恵さんの「ブックオカ」ルポの載った『アクセス』と、『映画論叢』『仙台文化』の新しい号を買う。〈FOLIO〉にて、Tさんと会って打ち合わせ。


都営新宿線で新宿、山手線で高田馬場へ。車内で『映画論叢』のコラムを読む。川喜多英一の「映画本の困った人たち」がお気に入り。今回は嵩元友子『銀座並木座』(鳥影社)について、バッサリ。「本の隅々、文章の端々まで、著者のスクリーン体験の浅さと映画史への無知が染み渡っているのだ」「遅れてきた者が“後世畏るべし”な仕事をすることは多々あるが、それには当該ジャンルへの愛情と最低四半世紀の鑑賞体験が必要」。25年経たないと書けないんじゃ、ライターとしてはキツイけど、それぐらいの年季を入れてやれ、というコトだろう。新連載の重政隆文「《映画の見かた》の見かた」では映画ライターの現状を批判、広瀬信夫「紙は強し、或いはキネ旬死亡」では『キネマ旬報』の映画紹介欄が今年7月で終了したことを痛罵。この雑誌のコラムは、じつにイキがいい(その反面、田中眞澄の連載みたいに、小見出しもなくダラダラと長い文章も)。〈BIG BOX古書市を覗き、『早稲田百年』(校倉書房)というバカでっかい本を1500円で買う。年表や写真が充実しており、早稲田のコトを調べるのに役に立ちそうだ。


目白に出て、〈ブックオフ〉を覗いたりして時間をつぶし、〈ポポタム〉へ。「海野弘 私の100冊の本の旅」展のトークの日。トーク相手の岡崎武志さんがいらしていた。会場を設営するうちに、お客さんが集まってくる。立ち見も含め、40人近くになった。6時半、トーク開始。岡崎さんのハナシのもっていき方は、じつにウマイ。最初はぽつりぽつりと答えていた海野さんも後半で調子が出てきて、会場を笑わせていた。子ども時代、馬込に住んでいた頃の話などはおもしろかった。あとで岡崎さんが、三鷹文鳥舎〉の海野さんのトーク(ぼくが聞き手)のときに書いたノートを見せてくれた。話したことをきちんと記録してある。「このときのハナシとなるべくダブらないように、考えたんや」と。さすが。


10人ほどが残り、歩いて5分ほどの池袋の〈蘭蘭〉へ。「わめぞ」(早稲田・目白・雑司が谷の本関係グループ)の集まりでこの店を使ったと聞いており、〈古書ほうろう〉の宮地夫妻もたまたま入ってウマかったと云っていた。食い気のあるヒトたちの推薦どおり、安くてうまくて量の多い店だった。やはり食い気のヒトである、堀切直人さんも大満足していた。店内は満員で、隣のグループが大はしゃぎだった。前田和彦くんも、東京に住んでから初めて、ちゃんと会う。働き口も決まってヨカッタ。しかし、もう「大阪のチン」とは云えないなあ。「高円寺のチン」に変えるか(チンは不変)。〈ポポタム〉の大林さんもあとから参加。今日の盛況を喜んでいた。展示は明日(土曜)までなので、未見の方はゼヒどうぞ。


海野さん、岡崎さんと池袋で別れ、堀切さん、青柳さんと山手線で帰る。ウチに着くと、旬公からびっくりすることを伝えられる。うーん、なんとかしたいなあ……。


では最後に、「路上派少年遊書日記――1981年・出雲」を。

1981年3月4日(水)
★期末テスト第三日。
今回のテストはさんざんだった。
二年の時には気をつけよう。


★夜、FMで「岡林信康ライブ」を聞く。
初めて聞くが、どの曲も良い曲だ。
とくに「イエ!イエ!」という曲は最高だった。*1


3月5日(木)
星新一『地球から来た男』読了。
やはり星新一は永遠に不メツですという気がする。
星新一は最高だ。


3月6日(金)
★放課後、かぜひいて部活休む。
どうもこのごろ体の調子のわるいようだ。気をつけたい。


買った本やレコードについてはいろいろ書くけど、肝心の感想が「良かった」「最高だ」と語彙が乏しい。中学生だからそうだったのかと思っていたが、それはいまの日記でも同じかもしれない。そのモノを手にするプロセスのほうに重点が置かれているのだ。(続く)

*1:[ストーム]というアルバムからのライブで、バックはムーンライダーズ。でもその時には、岡林がフォークシンガーだったこともムーンライダーズのことも一切知らなかった。このとき録音したテープは、いまも実家にあると思う。