リサイクルブックフェアに2回行く

kawasusu2006-12-02

朝7時50分起き。まだ寝ている旬公を残して、自転車で出発。日暮里の〈六文そば〉でゲソ天そばを食べる。ココのつゆはかなり濃いめなのが難点。鶯谷経由で入谷へ。台東区中央図書館に到着すると、すでに20人ほどの行列ができていた。そう、今日は年に一回の「リサイクルブックフェア」なのだった。昨年はじめて行ってコーフンした様子は、日記(http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/20051112)に残っている。今年は図書館のサイトや掲示板にもなかなか予告が載らず、同じくこのフェアのファンである右文書院の青柳さんと「今年はやらないのかなあ」とやきもきしていたトコロに、今日やるという告知がのったのだった。


昨年と同じく、ぼくの前に老人二人が並んでいる。一人は「来年80歳ですよ」と云っていた。中央区の図書館でのリサイクルフェアに行ってきたハナシをしている。40年後のぼくもこんなカンジなんだろうか……。列はすごい勢いで増えていき、9時前には150人ぐらいになる。青柳さんも後ろのほうに並んでいる。


9時開場。買い物カゴを受け取ってナカに入る。しかし、このカゴは人込みの中ではかえって移動には邪魔だった。単行本50円、文庫・新書・雑誌10円。ヒトが少ないところから見始める。ついこないだ300冊、牛イチロー先生に引き渡したばかりだし、これからまだ処分するつもりなので、必要な本だけにしようと思っていたのだが、小部数の研究書やマイナーな小説本を見ると、やっぱり手が出ずにはいられない。たちまちカゴは一杯になり、一度精算する。単行本19冊、文庫5冊でちょうど1000円。そのあともう一回りして、10冊ほど追加。


青柳さんも一段落したので、昨年も行った喫茶店へ。昨日いただいた右文書院の新刊、島田和世『浅草育ち』の話を。芸者の母とばくち打ちの父の間に生まれ、浅草で育った75歳の女性が戦前から戦後への浅草を回想したもの。堀切直人さんの『浅草』を読んだ著者が連絡してきたのが縁で、出版が決まった。栞は堀切さんと勝又浩さん。林哲夫さんの装幀がいかにも浅草の女性、といったカンジで、「まるで沢村貞子の本ですね」と云ったら、「社長もそう云ってました」と青柳さんは笑った。


そのあと、また図書館に戻って一回り。古本市と違い、売れ線を先に出すというコトがないので、後から開けた箱に大当たりが眠っている可能性がある。青柳さんなどは、「自分がいないときに凄いのが出てないか、気になって。早く終ってくれないかな」と自分勝手なコトを云っていた。下の箱を点検しているうちに、小説は著者名の五十音順で箱詰めされていることに気づく。で、「た行」の著者が多い箱を見ていたら、田中小実昌の『ふらふら日記』『きょうがきのうに』『旅情短篇集 きょとん』をまとめて発見。それらを含め、10冊ほどまた買った。これ以上買うと自転車での運搬が不可能になるので、諦めてウチに帰る。


買ってきた本の一冊に、山口廣編『郊外住宅地の系譜 東京の田園ユートピア』(鹿島出版会)というのがあり、森田伸子「日暮里 渡辺町 消滅」という論文が入っている。何気なく読み出して驚く。「渡辺町」というのは、現在の西日暮里4丁目であり、ここが「大正初期に開発された分譲住宅地」「明治末頃から各地でつくられはじめた郊外住宅地の初期のもの」だというのだ。そのあとの記述にも初めて知る事実が多し。こんど、ゆっくり紹介します。荒川区の歴史に関する貴重な論文が入った本が、たった50円で手に入るとは。


しかし、待てよと思い、台東区の図書館データベースで検索してみると、同書はヒットしない。つまり、一冊しか所蔵していなかった同書を廃棄してしまったのだ。気になって、研究書や評論集を検索してみると、所蔵があるものもあり、ないものもあった。いちおう原則としては、複本を廃棄していると思っていたが、そうでもないようだ。また、図書館の分類ラベルが貼ってない、しかも刊年の古い本(柳原良平のイラスト入りの戸塚文子『外人さん』文藝春秋新社、とか)もあるが、コレは寄贈されたまま閲覧に供されなかった本なのだろうか? この本は廃棄すべき本だという判断が、どうやってなされているかが、急に気になってきた。ぼくは、いい本が安く手に入るというので、リサイクルブックフェアに感謝してきたが、それはあくまでも、図書館が必要な本を保存してくれているという前提があってのハナシだ。もちろん、規模や予算の問題で、「保存」が危機に瀕していることもおぼろげながら理解しているつもりだが。同館のサイトに上がっている図書館の館則は抜粋なので、廃棄(除籍)の基準はよく判らない。この辺のガイドラインを紹介した記事が『図書館雑誌』などに載っていれば読みたいものだが、ご存知ありませんか?>書物蔵さま。


一冊しかない本を廃棄しているかもしれない……と思い出したら、なんだか、本に対する使命感みたいなもの(ま、もったいない、というコトです)が沸いてきた。やりかけの原稿を片付けてから、もう一度自転車で入谷に向かう。〈ときわ食堂〉(ココのは初めて入った)でハヤシライスを食べて、図書館へ。まだヒトは多いけど、少しは見やすくなった。と、そのとき、館員が「タイムサービスです」と叫ぶ。なんと、単行本は1冊10円、文庫や雑誌は持てるだけで10円に値下げだというのだ。そんなコトやってるとは知らなかったぞ。で、また20冊買って、200円払う。そのあと、郷土資料室に上がり、ちょっと調べものをする。自転車でウチに帰ってきたのは4時過ぎだった。なんだか一日中、図書館で過ごした心持ちである。


雑用いくつか。晩飯はトマトチャーハン。けっこう美味しくできた。以前にDVDボックスを買っていた、加藤泰監督《風の武士》(1964)を観る。そういえば、セドローくんが教えてくれたので、昨日、日垣隆『すぐに稼げる文章術』を買ってみた。創刊した幻冬舎新書の一冊。そのナカの「文章で稼ぐための必読33冊」に、セドローくんの『早稲田古本屋日録』とぼくの『ナンダロウアヤシゲな日々』が取り上げられていると聞いて、あまりのミスマッチに笑ってしまったが、本文を読んで、さらに笑った。すごい理由で取り上げられているのだ。しかも、これが50冊とか100冊とかではなくて33冊の1冊だというのがオモシロイ。ちなみに、ぼくの後ろは遠藤秀紀『解剖男』で、知り合いが3人並んでいるのが不思議。


では最後に、今夜も「路上派少年遊書日記――1981年・出雲」です。

1981年2月25日(水)
★今日は女の子を好きになるということについて考えてみたいと思う。
ぼくは今までのところ、そんなに死ぬほど好きと思うような人はいなかった。
ただ友達としてのこの人とは気が合うなということで、友人として好きということはたびたびあった。また、ちょっとあの人はいいなと思う時もある。それはそれ以上進展せずその人と話して、ああおもしろかったで終わりである。
でも、やはり女の子と話していると、なんとなく、いい感じがしないでもない。
そんな気もちが恋愛につながるのだろうか。


僕の場合、特定の女子よりも、不特定のこんな感じの女子の集まり、として好きになる場合が多い。だから話したいと思う人は、かなりいるわけだ。
わりあい僕は女の子とは気軽に話せる方ではある。かなりのことを気軽にぶちまける。これも性格の表われだけど、ちょっといきすぎて、「まあ、この人スケベ」ということになる場合もある。その時はその時でおもしろい。
僕はだから女子というものは、すこし男の子とちがった感じの話し相手という感が強い。
ちょっとばかりやらしいことの知識があっても、実際のことは僕はすぐ顔が赤くなる。だからてれながら話すけれど、そんな話でも楽しい気持ちになってくる。
実際、話というものは楽しいものだ。将来僕に好きな人ができたら、話して話して話しまくり、自分のペースにひきこみたい。


結論=僕にとっての女の子(女性ではない)とは、男の子よりちょっとちがった感じの話し相手で、不特定の多数の人を示す。これからも、そのようにいきたいが、ある日、突然好きな人があらわれるかもしれない。
と長々とつづいた結果、何のことやらさっぱりわけがわからなくなり、「あ〜、書くだけそんした」というようになって終るのである。


じつにイタイ。痛いなあ……。しかし、いまの自分からすると意外なほど、この時期は外向的な性格だったようだ。やたら「話す」ってことが出てくるもんなあ。(遠い目をして続く)