仕事が私を選ぶ、のか

昨夜、書評で取り上げようと思っていた、田口久美子『書店繁昌記』(ポプラ社)を読んで悩む。そこで書かれている内容(ジュンク堂という書店の現場で起こっていること)には興味がある。でも、文章が粗すぎて、読み進めるのがつらいのだ。たとえば85ページ3段落目の、すべてが「、」でつながっている一節。一読して、すっと文章の流れがアタマに入ってこない。後半、ジュンク堂の店員の話を聞くあたりも、地の文からインタビュー文への流れが不自然で、なんかテープ起こしをそのままはめ込んだ感じ。ウェブで連載されたからだろうか? でも、同じくウェブ連載だった『書店風雲録』(本の雑誌社)はここまで読みにくくはなかった。これがこの人の文体だと云われてしまえばそれまでだが、ぼくには「ざまく」(出雲弁で雑という意味)な文章にしか思えなかった。仕方ないので、急遽、別の本に差し替える。


朝8時起き。原稿を書かねばならないが、なかなか手が着かない。〈古書ほうろう〉や〈往来堂書店〉を覗いたり、〈花歩〉でコーヒーを飲んだり。『日本古書通信』10月号の座談会「古書店に望みたいこと 感謝していること」を読む。匿名座談会となっているが、Aさんは私も知っているMさんだろう。司会は樽見さんだ。冒頭から「一箱古本市」が話題に上っている。どうも、自分たちの頭の中にある「本来の古本屋」と、最近の若い世代の古本屋あるいは「一箱」に参加する素人とを区別したいようなのだ。しかし、「本来の古本屋」などという明確な像がもともとあったのか、とぼくは疑問に思う。確固とした「業界」があった(そのほかの世界がなかった)時代には販売方法などに共通項があったにしても、古本屋さんは一人が一業種といってもいいほど、それぞれ違うあり方だったのではないだろうか? 「古本が読む物ではなくて、完全にグッズ化して、ただ買うこと持つことの快感だけになっているような気がします」(Cさん)という指摘などは、その通りだと思うが、じゃあ、どうすればいいか、ということは誰も話してくれない。昔の古本屋はよかった、というばかりだ。彼らが云っていることと、先日の「古本屋になるための一日講座」に出席した多くの古本屋志望者から感じた熱気とが、あまりにも違いすぎて、思わず一言書きたくなった。


原稿書けないまま、出かける時間に。東京古書会館の前でカメラマンのTさんと待ち合わせ。アンダーグラウンド・ブック・カフェでの、尾仲浩二(写真家)・大田通貴(書肆 蒼穹舎)・林哲夫トークショー「写真漬け――撮る人 編む人 描く人」の取材。大田さんとは久しぶりに会う。冒頭、尾仲さんの写真のスライドショーがある。2作あり。どちらもご本人がMacでつくったそうだが、どちらもすごくイイ。音楽にもよく合っている。続いてのトークも、林さんの話の引き出し方が絶妙だったこともあり、すごくオモシロかった。作品としての写真を撮るために、職業的なカメラマンにならずに、仕事のないときは図書館と酒で時間をつぶしていたという尾仲さん、工場で働いた給料で年一冊、好きな作家の写真集を出版していた(のちにその工場が倒産し、借金を負わされて逃亡までする)大田さんは、自分の仕事について「これしかない」という確信を持っている。私が仕事を選ぶ、のではなく、仕事が私を選んだ、と云えるだろう(冨田均が『私の愛した東京』ではなく『私を愛した東京』と書くように)。ぼくもそのうち、いまの仕事が自分を選んでくれた、と思えるようになるだろうか。


会場で毎日ムックのHさんから脅されるも、ウチに帰っても原稿は書けず。こんなときに、貫井徳郎『空白の叫び』上・下(小学館)というくらーい、くらい長篇小説を読んでしまい、夢見の悪い眠りにつく。