ネタンダーズを聴きながら

9時起き。午前中はアレコレと。1時ごろ出かけて、下北沢へ。〈シネマ・アートン下北沢〉に、鈴木英夫特集を観にいったのだ。《魔子恐るべし》(1954)というので、梅田晴夫の脚本なので観たのだが……熟睡しました。この前後に、レコード屋や古本屋に行ったのだが、「帝都逍遙蕩尽日録」で書くつもりなので、ココでは略。【9月28日に「下北沢デ音楽喫茶ニ出会ヒ、三十年前ノ街ト人ヲ想フ事」としてアップされました。http://www.maboroshi-ch.com/cha/nandarou.htm


初めて入る〈音楽喫茶いーはとーぼ〉で、田沢竜次『東京名画座グラフィティ』(平凡社新書)を読了。渋谷、池袋、新宿、銀座・日比谷とその他のエリアの名画座について、館内の雰囲気や番組編成の特徴などを詳しく書いてくれている。いまは判りにくくなった、「一番館」「二番館」「三番館」「名画座」の違いも解説されているし、名画座での飲食の楽しみにもちゃんと触れている。塩山芳明さんの日記(しかし、相変わらず読むのが早いですなあ)の「崇元友子の愚書、『銀座並木座』(鳥影社)に比べればはるかに上等」という評に同意する。だけど、著者が名画座フリークだったのが1960年代後半から1970年代にかけてのコトだから、その後の名画座についてはあまり触れられていない。「あとがき」に出てくる〈亀有名画座〉や〈川崎追分〉(「腰痛日記@川崎追分町」さんの住んでるトコですな)〈川崎国際〉〈上板東映〉など、1980年代にガンバった名画座について、知りたいコトがいっぱいあったのだが。新書という形態上、そこまで望むのは酷かもしてないが、平凡社新書にはそのぐらいの濃さを期待してしまう。ところで、同書では、〈高田馬場パール座〉が「八〇年代のある時期にひっそりと閉館してしまった」とある(p140)が、1992年までは確実にありましたよ(一度休館したのち再開したかもしれないが)。たまたま付けていた映画鑑賞ノートによれば、この年にぼくはココで、増村保造監督《大悪党》(1968)や加藤泰監督《真田風雲録》(1963)を観ている。


ウチに帰ると、塩山さんの日記(http://www.linkclub.or.jp/~mangaya/nikkann.html)に『路上派遊書日記』の愛情あふれる紹介が。

面白さでは比較にならんだろうが(俺が上)、南陀楼綾繁の『路上派遊書日記』(右文書院・定価2200円)が10月2日発売と。456Pあるらしいが、奴の腰のすわらない生ぬるい世界に、そんだけ銭出して浸りたいボケが?


一方、エンテツさんのブログ(http://enmeshi.way-nifty.com/meshi/)にも言及が。

だが、しかし、この南陀楼綾繁さんは、のほほ〜んホノボノお人よしうらぶれだらしないかんじでフラフラしながら、そして鋭くはないが、二枚腰十枚腰の眼力と根性を持った、かなりしたたかな油断ならない男だと、この本で読むことは可能だろうし、そう読めたあなたは、有能な、儲けられるかどうかはわからない、編集者になれるかも知れない。とにかく、二枚腰十枚腰の眼力と根性が、どう街を人を本をモノを見ているか、なかなか油断ならない。と、注に書きたかったが、書くところがなかったので、ここに書いておく。この本と南陀楼綾繁さんについて、このように書く人はいないだろうという自信を持って、本文は読まなくてよいから、おれの注だけ立ち読みすべきであると、オススメする。


最近敵対してる(?)両者から、「腰のすわらない生ぬるい世界」、「うらぶれだらしないかんじ」で「鋭くはない」などと云われるのはぼくは一体なんなんだと思わぬでもないが、いまさら、腰をすえて鋭い言論を発するのはムリですから、このまま行きますよ。


下北沢の〈ハイラインレコード〉で買ってきたCDを聴く。ネタンダーズの[ネタンダーズ]と[サマーセッツ]がとても良くて、そのあとも、「書評のメルマガ」の編集をしながら聴く。ちょうど扉野良人さんの「全著快読 梅崎春生を読む」をまとめたのだが、ネタンダーズの塚本功(vo,g)は扉野さんと近代ナリコさんの大学時代からの友人で、ぼくが初めて聴いたのも、こないだ扉野家に泊めてもらったときだった。そのとき、一緒に泊まった荻原魚雷さんもネタンダーズの友人なのだから、いつか聴く運命だったのであろう。今度はライブに行きたい。


その荻原魚雷さんから。コクテイル文庫版の『借家と古本』が届いていた。スムース文庫版に2本を加えている。そのうちの「山口瞳ファン二代目の手記」は、『山口瞳通信』からぼくが依頼された原稿がどうにも書けそうもなく、「魚雷さんだったら絶対イイから」と発行人の中野朗さんに云って実現したもの(もちろん中野さんも魚雷さんの文章のファンだった)。ぼくが落としたおかげでこの名文が生まれたのだから、魚雷ファンには感謝してほしい(ちなみに、ぼくは翌年の号に書きました)。


『借家と古本』の復刊は嬉しい。石丸澄子さんの表紙もイイ。だけど、だな。この組版と印刷はナイんじゃないの? めちゃくちゃ小さな大きさの文字を、1行に63字も詰め込んでいる。エッセイを読ませる文字組みじゃないでしょう、これは。ページ数を抑えたいのかもしれないけど、そのわりには、各記事の末尾にけっこう空白があったりする。もっと大きな文字で1行の字数を少なめにすることはできたハズだろう。それと、文字がまともに印刷されていない。カギカッコや漢数字の「一」が半分消えかかっている。いくら安い印刷所に出したとしても、これはちょっとヒドイ。つくった人たちは、出せればいい、読めればいい、と思っているのだろうか。このコクテイル文庫版は、初めて荻原魚雷の文章を読むヒトのことを考えた造りになっているのだろうか。なんだか、寂しいよ。


「秋も一箱古本市」の店主、まだまだ募集中。目下、30数人といったトコロらしい。この連休でけっこう申し込みが来るかもしれないので、参加を検討中の方はお早めにどうぞ。春に比べると、古本は10冊以上あればOKと、売るものの自由度が高くなっています。腕試しに参加してみてもイイのでは?