「花森安治と『暮しの手帖』展」で思ったこと

8時起きで、旬公と上野へ。構内のさぬきうどん屋で朝飯。駅を出たところの〈上野セントラル〉で、スティーヴン・スピルバーグ監督《ミュンヘン》(2005、米)を観る。朝9時からの上映なので、客は15人ぐらい。上野の映画館はどこも空いているし、適度に古びていて、ロードショーを観るのには向いている。ただ、ココは本編上映時も後ろの非常灯が点灯していて場内が薄明るいので、画面に集中しにくかったが。映画はよかったが、ちょっと物足りなさも感じた。それをうまく書けなさそうなので、とりあえずこの程度で。


終わって外に出ると、次の回の客が並んでいる。それをやり過ごして階段を上ると、真正面が常設の古本市コーナーだ。映画館を出たら古本市なんて、「玄関開けたら2分でゴハン」みたいでイイね。一回りしたが、今日は何も買わず。そのあと、旬公が二日に一度通っている岩盤浴の店を見せてもらう。なるほど、ここか。たしかに狭い。「アタシが家出したときは、行き先はココだからね」と云われる。同じビルの半分がビデオ鑑賞ルームなので、家出されたらそこで張り込むことに決めた。「元祖釜飯」をうたう〈春〉に入る。座敷はほぼ満席。牡蠣の釜飯、美味しかった。


谷中のアパートで仕事するという旬公と別れ、山手線で新宿へ。京王線に乗り換えて、蘆花公園、そこから歩いて世田谷文学館へ。1階の企画展「花森安治と『暮しの手帖』展」を見る。もっと大きな展示だと思いこんでいたのだが、意外とすぐ見終わってしまった。2002年6〜7月に銀座〈ggg〉で開いた展覧会よりは、少し多かったか。たぶん今回初めて見た展示物は、花森の旧制松江高校時代の写真、帝大の学生証、従軍手帖、奥さんや孫宛のハガキといったあたり。表紙や広告の隅々まで配慮が行き届いた版下は、何度見ても感動的。あと、仕事場で使っていた文房具類も。


ただ、ぼく個人の興味からいえば、『暮しの手帖』についての展示が多く、花森個人に関する展示物が少なすぎると思う。花森の装幀本は60冊ぐらいが壁に展示され、その中にはぼくも提供した本も入っていたが、じっさいにはあの3倍はあるハズなのだから、一堂に並べてほしかった。花森が表紙をデザインした中村汀女の句誌『風花』は初めて見るものでワクワクしたが、あそこに展示された9号分だけだったのか。ほかにもやっていたとすれば、全部見たかった。もっとマズイのは、すでに岡崎武志さんが指摘したように、図録に上に挙げた展示品の図版がまったく載せられておらず、『暮しの手帖』の誌面からの再録が大半を占めていたことだ。たとえば89号の「色無地のネクタイのすすめ」は、誌面のバックに使われた花森作の看板の現物が一緒に並べられているのに、図録ではカットされている。もったいない。展示物の目録も図録に入っておらず、会場でコピーを配っていた。花森安治と『暮しの手帖』が不可分のものであるのは判るのだが、両方の要素を入れてどっちつかずになるよりは、小さな規模でイイから一度、花森安治その人についての展覧会を企画してくれないだろうか、と思う。


そんなコトを考えながら2階に上がったので、「森茉莉街道をゆく」(http://blog.livedoor.jp/chiwami403/)のちわみさんにバッタリ会って話しかけられたときも、ちょっと受け答えが遅れてしまった。ごめんね。常設展を駆け足で見て、駅まで戻り、新宿へ。ルミネの〈ブックファースト〉で、佐々木崇夫『三流週刊誌編集部 アサヒ芸能と徳間康快の思い出』(バジリコ)を見つける。締め切りすぎても『レモンクラブ』の候補が見つからず困っていたが、この本に即決。〈TSUTAYA〉でビデオを借り、丸の内線に乗る。霞ヶ関で千代田線に乗り換えて、綾瀬へ。


久しぶりに〈デカダン文庫〉へ。綾瀬まで来ても休みだったり、こっちが急いでいたりで、なかなか寄れなかった。おじさんは相変わらず元気で、声がデカイ。こっちの動向をよくご存知なので驚く。「あんたのことをインターで見てる人がいて逐一教えてくれるんだよ」。「インター」とは、もちろんインターナショナルではなくインターネットのことだ。ネットに日記を載せている以上、誰に見られてもどう使われても仕方ないけど、ちょっと複雑な気分。棚には相変わらず筋のイイ本が揃っていて、何冊も買いたくなるが、値段も相応だったので、3冊に絞る。『梅崎春生随筆集』(五月書房)3000円、古木鐡太郎『折舟』(校倉書房)2800円、『兵六亭 神田辺りで呑んだ』(刊行会)1200円。『折舟』は著者簿ツボにまとめられた本で、尾崎一雄上林暁木山捷平らの追悼文が収録されている。浅見淵のあとがきによれば、同書は二冊目の遺稿集。一冊目の『紅いノート』は『大正の作家』とともに最近、白河書院から復刻された(鈴木地蔵さんから頂戴した)。


ブックオフ〉に寄るがナニも買わず。いつもの〈味路〉でチューハイとモツ焼き。ガツのにんにく漬けがやたらとウマイ。この店は客が少ないし、来ても1人の客が多いので、落ち着いて飲める。『三流週刊誌編集部』を読み進める。ウチに帰り、ちょっとヨコになってから、晩飯の支度。NHKドラマ《氷壁》を見ていたら、外で怒鳴り声がする。思わずベランダに出て拝聴。おじいさんがおばあさんに、「うそつき女」などと怒鳴っている。借金のトラブルか。しばらく聞いていたら、仲裁に現われた女性がインタビュアーになってくれ、この二人が同居していること、でも籍は入ってないこと、車を買うことで揉めているらしい……などが判ってくる。うーん、人間模様である。


ビデオで、アラン・パーカー監督《ミシシッピ・バーニング》(1988、米)をみる。1964年にアメリカ南部で起こった公民権運動家の失踪事件を、FBIのジーン・ハックマンとウィリアム・デフォーのコンビが捜査する。その裏に、KKK団をはじめとする白人の根深い黒人差別があった。南部の白人の容赦なさ・独善性には吐き気がするが、それを批判して終わり、という映画ではない。この状況を容認してきた者全員に、自己批判を迫る映画である。とともに、ベトナムからイラクまで続くアメリカの攻撃は、黒人を仮想的としていたプアホワイトの矛先を外国にそらしたものだというのが、よく判る。たまたま同じ日に実話をもとにした映画を二本観たワケだが、ぼくは《ミュンヘン》にはない感銘を《ミシシッピ・バーニング》に覚えた。