雑誌を眺めて思ったこと

目が覚めたら12時だった。いやー、久しぶりにぐっすり眠ったなあ。やらなければの仕事は多いが、今日だけは休ませてもらおう。旬公と自転車で出かける。不忍通りのイタリア料理屋は休みだったので、田端のレストランで車海老フライのカレーを食べる。1400円。昨日の売上金額トップだった旬公にご馳走していただく。ウチに帰り、ゴロッとヨコになる。この数日、「一箱古本市」の準備で気が休まるヒマがなく(つねにメールを書いたり、手作業していた気がする)、届いた雑誌を見るコトもできなかった。それで手当たり次第に雑誌を眺める。


それにしても、ウチにはヘンな雑誌が多い。いま座っている周囲にある雑誌を挙げてみると、『薔薇続』復刊号、『トーン』創刊号(旬公が「インド・デリー食肉紀行」というイラストルポを書いている)、『少年文芸』創刊号(新風舎の妙な文芸誌。ココにも旬公が新風社直営の書店のイラストルポを)、『BUBKA』5月号(モーニング娘矢口真里脱退をめぐる事務所の姿勢を徹底糾弾する特集に、モーヲタの「漢」を感じる)、『サンパン』第10号(曽根博義楢崎勤の徳」から読もう。セドローくんの「店番日記」、毎回いろんな構成・文体を試しているな)、『雲遊天下』39号(特集は「サケと散歩と自転車と」。『立ち飲みジャーナル』なんてミニコミがあったとは。友部正人「補聴器と老眼鏡」最終回のゲストは発行人の村元武さん。熟読したい)、『映画秘宝』5月号(買ってからページをめくってない)、今日届いたのが『一寸』、あとは『うえの』『青春と読書』『ちくま』『週刊新潮』など。なんかこう、バラバラなカンジである。


今日はナニも書かずに過ごすツモリだったが、ネットを見ると一箱古本市の店主やお客さんがいろいろと感想を書いてくださっている。ぼくも忘れないウチに書いておくかと、昨日の日記を書きはじめたら2時間近くかかった。それをアップして、古書ほうろうへ。外は雨が降っている。昨日も途中からこんな雨が降ってきていたらと思うと、ゾッとする。スポット別の売上記入シートをコンビニでコピーする。帰って、仁木悦子『探偵三影潤全集2 青の巻』(出版芸術社)を読んでいると、旬公から電話。「今日、晩御飯どうするの?」と訊くから、「カレーでもつくろうと思って」と答えると、「はぁっ?」と云われる。それで気づいた。今日の昼、カレー食べたんだっけ!! 食べたことをすっかり忘れて、カレーに対する欲求(伊藤理佐流に云えば「カレー心」)だけが身体に残っていたのだろうか。とにかくスープに切り替えて、つくりはじめる。


テレビで映画《フラッド》(1998、米)を観る。ハリウッド的なパニック・ムービーかと思ったら、洪水のなかの町という極限状況でヒトはどう行動するかというサスペンスを描いたもので、ワリとおもしろく観られた。夜になって、「一箱古本市」の感想、さらに増える。いずれまとめて紹介したいが、岡崎武志さんの日記(http://d.hatena.ne.jp/okatake/)で以下のように書いてくださったことがとくに嬉しかった。

今回のイベントは気分よく、初の試みとしては大成功だったと思う。それは、ナンダロウさんはじめ、今回かかわったスタッフの周到な準備とチームワークにあったと思う。邪悪なものが少しでも交じれば、地域連携のことも含め、トラブル発生は必至だったろうが、参加者としてのぼくの目から見る限り、完璧だったと思う。


岡崎さんからはそのあと電話でもホメてもらった。好きでやったコトとはいえ、けっして平坦ではなかったこの数ヶ月間のアレコレが報われたようで、ほんのちょっと涙が出た。そのあと、岡崎さんの日記に出た某出版社の対応について話をする。古本についての愛情も知識もなく、ただ売れそうだから女子にウケそうだからという理由で出版を急ぎ、さらに出た本をきちんと売っていく努力もせずに品切れにし、あまつさえやっぱり売れそうだから再版にする、ただし原稿料はありませんだと。しかも、この本には岡崎さんの推薦した書き手が何人もいるのだ。それを一方的な通告でハナシが済むと思ってる(きっとホントにそう思っているのだろう)トコロがすごい。その後、ワークショップの準備から帰ってきた旬公からも、別の出版社による同じようなハナシを聞く。


そこで唐突に思い出したのが、さっき『BUBKA』で読んだ矢口真里脱退についての特集だ。メインのルポもなかなか読みゴタエあったが、ビバ彦宇多丸、ワルの座談会で、宇多丸が「事務所が駒として扱いすぎなんだよね。生きた人間が作ってるってもんだってことを分かってないとしか思えないよ」と云い、ワルが「事務所から見たらタレントは駒かもしれないけど、その駒を上手に使いたかったら気持ちを理解してあげないと。感情のない駒じゃないんだから」と受けている。ライターやイラストレーターを「駒」とするのは不穏当かもしれないが、じっさい、いまの出版社(とくに雑誌)の編集者には取替えのきく「駒」に「発注」してるつもりのヒトが多いだろう。彼らにとってはライターやイラストレーターが抗議するなんてもっての外、なのである(岡崎さんほど著書をたくさん持っているライターにしてそうなのだ)。どうして、こうなんだろう? ぼくは編集ほどオモシロイ仕事はないし、編集者ほど役得の多い職業はないとつねづね思っているのだが、同じ編集者でも「駒」とか「発注」とかの意識しかないヒトにとっては、仕事はあくまで「こなす」ものであり、人付き合いなんて面倒くさいのかもしれない(忙しいだろうし、激務であろうコトには同情しますが)。


不忍ブックストリートMAP」や「一箱古本市」について、ぼくが果たした役割をひとつだけこっそり自慢させていただくと、それは、地図についても古本市についても「編集者」として関わったコトである(サイトなどではライター、編集者と併称しているが)。つまり、企画をどう進めるか、スタッフをどう組み合わせるか、店主をどう配置するか、などなどを、編集者としての考え方で提案していったのだ。古本市なんてやったコトはないが、人と人を組み合わせてカタチにすることは、本や雑誌をつくることとそんなに大きく変わらないのではないかと思ったからだ。そして、ぼくが思いつかなかったコト、忘れていたコトは、スタッフの各自が古本屋、新刊書店、デザイナー、イラストレーター、地域雑誌というそれぞれの立場から補足してくれた。岡崎さんや旬公をへこませた編集者は、きっとぼくよりも力があって社会的地位も高いだろう。でも、古本市でもいい、フリーマーケットでもいい、あるいは音楽鑑賞会でもいい、そういうイベントをあなたは「編集」することができますか? とぼくは問いたい。あなたは、ぼくが「昨日は乱歩の前の店主の組み合わせはジャンルがバラけてうまくいったなあ」とか、「ルシェルシュの店の雰囲気と店主の出した本はマッチしていたなあ」とか反芻してるコトをバカバカしいと思うかもしれない。でも、ぼくにとってみれば、それこそが「編集」の楽しさであり、難しさなのだ。