雨の日は図書館で

朝刊に、昨日の夕方5時頃、都営新宿線の曙橋−市ヶ谷間で突然電車が止まり、乗客が歩いて移動したという記事が。このため新宿線は相当混乱したようだ。フツーにウチに帰っていたら、ちょうど巻き込まれていたな。グーゼンとはいえ、昨日は池袋に出たので助かった。昨夜からずっと雨が降っている。今日は〈古書ほうろう〉に置きっぱなしの本を、谷中の部屋に運ぼうと思っていたが、コレじゃ自転車は使えないなあ。午後からの「製本ワークショップ」の準備で出かける旬公と一緒に外に出て、CDを返してから、また戻ってくる。


図書館で借りた、中島梓『夢見る頃を過ぎても 中島梓文芸時評』(ベネッセ)を読了。たしか、安原顕の『決定版 「編集者」の仕事』(マガジンハウス)で激賞されてたので、読む気になった。いやー、きわめてオモシロかった。1995年、つまりちょうど10年前に出た本だ(連載は『海燕』で94年5月号〜95年4月号)。出たときは文芸時評なんで興味ないので読まなかったが、いま読んでかえってヨカッタと思っている。なぜなから、ココで中島梓は、現在の状況をかなり正確に予見しているからだ(とくに「欲望という名のファンタジー」「少女たちの見る夢は」の二章)。いま、大塚英志が書いているようなコトを、中島梓はもっと直感的にとらえている(と思うのだが、大塚の『サブカルチャー文学論』はこれから読むので、なんとも云えない)。


第一回目は、文芸誌各誌の記事を全部読むという(それ自体はありがちな)試みで、ここでの中島は意図的にバカっぽい文体で、「文学オンチ」を装って、文学という「ムラ」を外から観察してやろうとしている。依頼された枚数をはるかにオーバーして、その月の全誌を読んだ結果は、やっぱりどれも「かったるかった」そうだ。そのナカで、久美沙織のエッセイと並んで、「なんだかはじめて『ちゃんと自分の時代』に自分がいるという気がしました」と評価されているのが、角田光代『微睡む夜のUFO』だった。


その角田光代直木賞という文壇の権威によってお墨付きを与えられるまで、ちょうど10年かかってしまった(ちなみに、同時に芥川賞を取った阿部和重の『アメリカの夜』について、中島は「もんのすごい読みにくい文章」だと否定的だった)。その間、「『ちゃんと自分の時代』に自分がいる」小説は増えたけど、しかし、今度はかえって、「自分」にもたれかかっただけの小説が増殖してしまった。それでも、「文芸誌」は同じようにまだある、というフシギ。このことを中島梓がどう考えるのか、訊いてみたい気がする。


それにしても、1990年代以降に文芸時評を書いた人の多くが、最初に自分が「文壇というムラの部外者」であると宣言してから始めるコトは興味深い。中島も文学という制度には興味がないとしつこく繰り返しているが、云えば云うほどかえって、文学とエンターテインメントの二分法にこだわっているように見えてしまう。困るのは、その仮想的「文学」のイメージが、(いかにカリカチュアであるとはいえ)かなりベタなことだ。

南陀楼注・文芸雑誌を毎月愛読している読者として〕想像できるのはいずれ自分も作家になりたくてせっせと同人誌に書くかたわらひそかに群像新人賞に投稿しては鎧袖一触落選している高校の国語の先生が「群像」の新人賞発表号を読んで俺のほうがずっと小説がうまいのにと思っている光景や、びんぞこ眼鏡をかけてなりふりかまわないのを誇りにしている文学部の女子学生がマルクス主義研究会の先輩の上級生の男に勧められてソレルスだかなんだかを読み、ちっとも面白くないけどなあと思いつつやるき茶屋の片隅で「やっぱり中上が死んでからはもう日本文学は駄目なんだよ、これからは南米文学だよ」と力説するその男にさんざん酔わされてついつい下宿に連れ込まれて犯されてしまう、といった陰惨な光景ばかりではないか。


これじゃ、まるっきり筒井康隆の『大いなる助走』だ。中島というヒトは、村上龍の『五分後の世界』について、ファンタジーの構造(ここではないどこかの世界の描き方)をふまえて、かなり鋭い指摘をする一方で、上のようなことをあまり考えないままに書いてしまったりする(イラク人質事件のときも、サイトでワリとうかつなことを書いてたんじゃなかったっけ)。本書で、「知らない人だ」と書かれている笙野頼子は、大塚英志よりも先に中島梓を批判しているんだろうか。ともかく、いろいろと発見があり、いま読む意味は十分にある。ちくま文庫あたりで文庫化すればいいのに、と思って調べたら、1999年にとっくにちくまから出ていた。解説は安原顕だった。


今日は3時から、銀座〈紙百科ギャラリー〉での、臼田捷治さんとデザイナーの羽良多平吉さんのトークに行くつもりだったが、ちょっとヨコになったら寝過ごしてしまう。しかたないので、銀座行きは諦めて、歩いて文京区の鴎外図書館へ。笙野頼子の『ドン・キホーテの「論争」』と『幽界森娘異聞』(いずれも講談社)を借りる。前者は再読、後者は小説だが中島梓批判が書かれているらしい。なんだか、文芸時評が読みたくなり、他にも数冊借りる。作家論や作品論には興味をもてないのだが、文芸時評にはその時代の「いま」がいやおうなしに反映されるので、おもしろく読めるものが多い。


久しぶりに〈千駄木倶楽部〉に入り、『ドン・キホーテの「論争」』を読んでいたら、おばさんが8人入ってきて、目の前のテーブル二つに席を占めた。さっそく、てんでんバラバラに注文したり、近況を述べあったりで、一気にうるさくなる。居酒屋だとうるさくても平気で本が読めるが、喫茶店でこんなに大声が飛び交うと、(とくに笙野頼子の文章などは)まったくアタマに入ってこない。「負けた……」というカンジで店を出て、谷中コミュニティセンターの図書館(台東区)に寄ってから、ウチに帰る。


夜は、牡蠣の鍋を食べながら、テレビで《出没! アド街ック天国》を見る。今週は堀切菖蒲園。この番組、マイナーな街を取り上げたときはけっこうオモシロイ。堀切にはときどき行くが、〈哈爾濱餃子〉〈立石バーガー〉などは知らなかった。ランクインした中で、ぼくが知ってるのは、古本の〈青木書店〉、カレーの〈アルー〉や飲み屋の〈きよし〉(カウンターが奥に曲がりくねっている)の3店。山田五郎青木正美さんの本を見せたのはイイが、表紙に思いっきり図書館のバーコードが入っていた。そのあと、「早稲田古本村通信」の原稿を書く。今回は、〈牛込文化〉というポルノ映画館について。こういうハナシはちょっと照れるね。


【今日の郵便物】
★『週刊読書人』2月25日号
ぼくが書いた『カバー、おかけしますか?』(出版ニュース社)の書評が掲載に。見出しは「貴重な歴史資料として 『書皮道』に邁進する人々」。
高野ひろしさんより 『高野金次郎商店』
さっそく「一箱古本市」を紹介してくれた。「一箱古本市と検索してみて下さい」とあったので、ちゃんとヒットするか不安になって検索してみると、この日記が出た。いま、公式blogを準備中だが、とりあえずはこの日記にアクセスできるようになっているので、一安心。高野さんも「ペンギン書店」として出店し、同時に路上写真展をやってくださる予定だ。
★古書目録 文庫堂、西村文生堂、呂古書房