本屋にナニを求めるのか

夜中に、ブックマークをたどっていたら、アスキーの日記サイト(なのか?)「mmm」(http://mmm.ascii24.com/diary/)が8月末で終了していたコトが判明。ここに『月刊アスキー』編集長の遠藤諭さんが日記を書いていたのだが、6月15日に『ナンダロウアヤシゲな日々』について、かなり長い文章を書いてくれていたのだ。以下に引用する(ちょっと、blockquoteタグというのをやってみるか)。

2004年6月15日 東京地方30℃
 南陀楼綾繁の『ナンダロウアヤシゲな日々』。画期的な本。
 本の“帯”の習慣は、世界的にも日本の出版界独特なものだが、この本では、ちょうど帯の倍くらいの高さの紙でぐるりと巻かれている。内側から、「カバー」→「帯の高さの倍の紙」→「帯」の順でくるまれているように見える。しかも、その帯の高さの倍の紙には丸い窓があいていて、カバーに描かれた著者とおぼしき顔のイラストが見える。実は、本をくるんだ紙類をばらして見ると、帯の倍の高さの“倍帯”は、カバーが外側に折り返されたものだった。目からウロコ。実は、帯をコレ式で作れば単価が安くなるのではないか? しかも、書店の店頭で帯だけ取れて無惨なことにはならない。改装のときにはどうせカバーごと取り替えてしまう(改装というのは返品になった本を綺麗にして再出荷すること)。
 ずっと前(アスキー入社以前)、この本の著者が企画編集した『雑誌集成 宮武外骨此中にあり』(全24巻)の書評を『すばる』に書かせてもらったことがある。その後、著者が『季刊・本とコンピュータ』の編集者になると、1ページものの連載コラムを16回ほど書くことになった。さて、この本、カバーと帯について書いたが中身はさらに濃くて、私の好きな“雑誌”の話がこれでもかと出てくる。なぜか、食べ物の話題も多し。しかも、大衆食堂系。雑誌とアジのフライ、ピッタリ合うような気がしてくる。

見つけたときにコピーしておいてヨカッタよ。あの本の装丁のコトをいち早く評価してくれた一人である。「大衆食堂系」という評価も嬉しいね。


朝起きて、11時すぎに出て、渋谷へ。〈ロゴスギャラリー〉で開催中の「新世紀書店・仮店舗営業中」(http://www.super-jp.com/shinseiki/)を見る。9月頃からこういうイベントをやることは聞いていたが、サイトを見るだけではイマイチ趣旨が判りにくかった。実際に見てみれば判るだろう、と出かけた次第。たしかに、会場で見てみれば、なるほどこういうコトかと腑に落ちた。全体をそれぞれ別の「理想の書店像」(どういう本を置くかだけでなく、本の並べ方のシチュエーションや、空間のレイアウトや、本にまつわるグッズなどを含む)を表す5つのスペースで区切る。そして、バラバラだが全体としては、ある雰囲気が伝わるようにする、というコトなのだろう。なるほど。


たしかに、ぼくも、本屋に、たんに目的の本が見つける場所だけでなく、滞在して楽しめる空間であるコトを望むし、その店で見つけた本は(たとえ他で買えるとしても)なるべくそこで買いたい。本屋が一期一会の場所だと思うからだ。しかし、この「新世紀書店」の展示に関しては、欲しい本も見つからなかったし、長居したいともあまり思わなかった(だから10分少々しかその場にいなかった印象で、以下を書く)。それは、ココで提案されている「本屋のカタチ」が、あまりにも「気持ちいい」とか「居心地がいい」とか「カワイイ」とかの価値観に偏っているコトが、あまり好きではなかったからだ。このような価値観に通じる古本屋やブックカフェやオンライン書店や、あるいはミニコミや本、雑誌はすでにあるし、流行ってもいる。その延長線上に「理想の本屋」を考えたとして、それが「新世紀書店」の名前にふさわしいのか、どうか。


上のような価値観に反した、本と空間とのミスマッチ、グロテスクで過剰なもの、本は素晴らしいものという通念を引っくりかえすもの、汚いけど何か面白そうなもの、はココには見当たらない。サイトには「素人だからだせる無謀なアイデア」も含まれるとあったが、無謀であるとともに可能性を感じさせる「素人っぽさ」は見つからなかった。もちろん、今回の展示はロゴスギャラリーという空間でできる範囲なのだし(古本しか並んでないのは、同じフロアにリブロがあるからだとか)、「仮店舗」なのだからコレから変わっていくのだろう。ぼくの感想はともかく、まずは見てみてください。パンフレット(300円)を買って、会場をあとにする。


ブックファースト〉2階で、鶴ヶ谷真一『古人の風貌』(白水社)などを買う。みなもと太郎『お楽しみはこれもなのじゃ』が角川書店から再刊されていてビックリ。河出文庫に入ったのは、つい数年前のことだったと思うが、すでに品切れになっていたようだ。4階で、今朝の毎日新聞書評欄に載っていた、ドルジ・ワンモ・ワンチュック『虹と雲 王妃の父が生きたブータン現代史』(平河出版社)を見つけた。杉浦康平デザイン。一緒に、これも毎日の書評があった、杉浦康平『宇宙を叩く』(工作舎)も買い、1万円がふっとぶ。新書で一冊、早く手に入れたいのがあり、駅前の〈TOKYO文庫TOWER〉を覗くが、1階はベストセラーの単行本と雑誌ばかりで、文庫も新書もほとんどない。店名に偽りあり。


そのあと、青山まで歩く。昨日、青山中学の古本市を見逃したのが気になって、もう一度出かける。今日は家族連れの客が多い。ぼくも「息子の受験先として考えている」という風情で入り込む。会場の社会科教室に行くと、まだ開いてない。待つうちにけっこうヒトが集まってきた。扉が開くとともに突入するが、一目で拍子抜け。ホトンドが最近の文庫である。単行本はなぜか新田次郎が多かった。このまま買わずに帰るのもなあ、といじましくもう一巡すると、『旅の仲間 瀬田貞二追悼文集』(1980年)という背表紙が目に飛び込んできた。どこかで聞いた名前だと、目次を繰ると、石井桃子いぬいとみこ堀内誠一矢川澄子ほかが追悼文を書いている。100円なので、即買って、文化祭をあとにする。ホントは売店の焼きそばを食べたいが、30男が一人でテーブルにいると目立ちそうだから。


骨董通りの裏通りの〈だるま〉というラーメン屋で、焼きそばを頼み、来るまでに『旅の仲間』をパラパラ。年譜がないのでよく判らないが(どうして付けてくれないのかなあ)、瀬田貞二平凡社の編集者を経て、児童文学の翻訳者となった人らしい。あとで、見つけた「瀬田貞二の訳業について」(http://www.fantasy.fromc.com/tolkien/seta.shtml)によれば、瀬田は『指輪物語』や『ナルニア国ものがたり』の訳者だった。ファンタジーに興味がないので、気がつかなかった。追悼文集の『旅の仲間』は『指輪物語』の最初の巻のタイトルでもある。


電車の中でも、少し読む。福音館の編集者である菅原啓州は、一緒にヨーロッパを旅行したときのことを、以下のように書いている(も一度、blockquoteしてみる)。

瀬田さんの、時に苛烈な怒りや失望や苛立ち、それは、瀬田さんが、大切に作ってこられ、無垢に一体化している別世界に、愚劣なことどもが、したり顔して土足で踏みこんでくる時の(略)瀬田さんの悲しみなのだ。楽しいことばかりのその旅の中でも、時折、そうした愚劣なことどもにひきもどされる時間のずれによって、瀬田さんとの間に一、二度、小さなさざ波が立った。しかし、そのことでなお一層瀬田さんの近くに立ったと私は思うのだ。嫌いなもの嫌いな人について気が合うということは、人を容易に近ずける。それは悪趣味かもしれないが、たとえ悪い趣味でも、私はそこで瀬田さんと意気投合したことを、やはり喜んでいる。


この「そのことでなお一層◎◎さんの近くに立った」という感覚は、ぼくもこれまでに何度か経験している。この一文が読めただけでも、100円は安かったと思う。仕事場に行くと、今日も一人だった。6時ぐらいまで机に向っていたが、あまり進まず。今日は池袋リブロで、杉浦康平さんの講演会があるのだが、行けそうにない。予約していたのに、申し訳ない。ウチに帰り、ちょっとヨコになったり、本を読んだり。晩飯は、厚揚げとベーコン炒め。仕事が進まないときは、逃避心が働くのか、どんどん日記が長くなっていく。まずいな。


【アンケート回答ご紹介】
◎とりさんより。
8月3日「杉作さんとお散歩」(http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/20040803

杉作氏はモクローくんに激似、というところで笑い、そのあとの熟睡した気がしない、というところでも、笑いました。岡崎武志さんとの交流も、「おー、古本の達人の交流だ、すげー」という感じで興味深かったです。

ありがとうございます。いま、この日に記述を見直して気づいたのですが、〈すずらん堂〉は前の場所での営業をやめたのではなく、新装開店したのでした。勘違いでした。

とりさんのblogはこちら。
「とり、本屋さんにゆく」
http://d.hatena.ne.jp/tori810/