もっと「感覚的な飛躍」を!

昨日の郵便物で、ひとつ書き忘れていた。「クイックジャパン」第55号。総力特集「くりぃむしちゅー」。これは読みたい。毎号最初に読む和田薫マネージャーの日記、独立して社長になったせいか、説教臭くなっててもったいない。コラム欄「QJC」で、森山編集長が『ナンダロウ〜』を紹介してくれた(192ページ)。彼と最初に会ったのは「両国フォークロアセンター」だったらしい。ぼくも久しく行ってないけど、先日の「sumus」展のイベントで来たヒトが、「最近復活した」と云ってたな。


朝起きると涼しい風が入り込んでくる。これは過ごしやすくなるかな、と思ったら、たちまち温度が上がって行き、出かける頃には暑くなっていた。神保町に出て、11時から取材。わりと短く終わる。〈Folio〉で打ち合わせがてら昼飯。チキンとタマゴのサンドイッチ。


岩波ブックセンター〉で仕事の資料を買ったり、〈ディスクユニオン〉でフェアで販売するCDを入れるカバーを買ったりする。後者では羅針盤の最新アルバム[いるみ]を買う。羅針盤フェアをやっていて、関連商品を一万円買うと、羅針盤のTシャツがもらえるとか。姉ちゃんが着ていたが、ちょっと欲しい。([いるみ]の特典でもらったバッヂはいらないけど)。そのあと、仕事場へ。対談、もうせっぱつまっているので、強引に進める。途中、メールの受信に問題があったりして、時間をロスするが、そこそこ進んだ。小沢信男さんから戻ってきた「サンパン」の聞き書き原稿をチェック。いくつかのエピソードが加えられ、密度が上がってさらにオモシロくなっている。いつものことだが、とても勉強になる。


徳島の北島町小西昌幸さんからファクスが。自治労機関紙「じちろう」2004年7月11/21日合併号に、『ナンダロウ〜』の紹介を書いてくださったのだ。タイトルは「若手編集名人による書物偏愛エッセイ」。小西さんは昔からぼくのことを買いかぶってるので、「名編集者」とか「編集者としても文筆家としてもバリバリのプロ」とか、本人にとっては顔から火が出るほどの表現が並んでる。まだまだだというコトは自分が一番良く知っている。あ、ひょっとして、「これだけプレッシャー与えとけば、そろそろ本腰入れるだろう」という小西さんの深謀遠慮かも!?


もうひとつ。先日「日刊ゲンダイ」での紀田順一郎さんのエッセイが、「ブックレビュー」というサイトに転載されている。
http://www.bookreview.ne.jp/book.asp?isbn=4895443671
こんなサイト、知らなかったなあ。「日刊ゲンダイ」とは提携しているようだ。


ウチに帰って夕飯の支度(今日はマグロとカツオのヅケ丼。すっかりかけ飯にハマってる)をしていると、旬公から電話。昨日から外付けハードディスクの設置がうまく行かなくて大変そう。〈ビックカメラ〉でデータの転送を頼んで一度帰ってから、また新宿まで取りに行くというので、付き合って出かける。閉店間際に入るが、データの転送はまだこれからで、30分ほど待たされる。ヒマなのでiPODを見ていたら、ちょっと欲しくなった。新宿駅で京王デパートを見上げると、「古書市開催中」の文字が。もうやってたのか、そういえば、今回目録は送られてこなかったなあ。


ウチに帰って、この二日読んでいた小田久郎『戦後詩壇私史』(新潮社)を最後まで。塩山芳明氏も「つまらん」と書いてたが、「私史」と題されてるワリには、他人の文章の引用が多く(しかも、何度も同じ文章が引用される)、セキララな記述がほとんどない。コレだけ厚いのにサービス悪い本である。ただ、「現代詩手帖」の前身の「文章倶楽部」の発行所が最初、乾元社(南方熊楠の著作集を出してたと思う)で、そのあと牧野書店になった、というのは初耳だった(19ページ)。「sumus」12号で松本八郎さんが書いている、牧野武夫の出版社だ。自伝『雲か山か』(中公文庫)には戦後の出版活動が書かれていないと、松本さんはなげいているが、投稿雑誌の発行所を引き受けていたとは。


【今日の郵便物】
★古書目録 西村文生堂


【今日のしおりページ】
散歩の達人MOOK THE東京夕暮れスタイル』交通新聞社、838円
109ページ 遠藤哲夫が「夕暮れのビールと焼きそば」を考える。
「味覚の表現で、「凛とした」だの「上品な味」だの言うようになったら、感覚的な飛躍が危機にさらされていると思っていい。なんというか、空想や想像に欠けるのだよ。もっと味覚も、それを感じる感覚も自由で可能性に満ちているはずだ。夕暮れどきの縁日気分のなかで、観念で錆びついた自由な感性の掃除をしよう。と、凛ともしてない、チープともいえる、縁日の主役たちを食べ、酒を飲みながら思う。そういえば、宵の酔いは、なんとなくアイマイでルーズな酔いである」
大衆食堂の詩人の面目、この一文にあり。食べることだけじゃなくて、映画も音楽も自由に見たり聴いたりしてるつもりで、いつのまにか、「感覚的な飛躍が危機にさらされている」ことが多いなあと思う、今日この頃。