すべての「でも、やるんだよ!」精神の生みの親

朝7時30分起床。くもり。駒込駅西口まで歩く。駒込図書館のポストに本を返して、久しぶりに〈セシル66〉でモーニング。昨日、古書ほうろうで買った『名古屋渋ビル手帖』読む。大阪の「月刊ビル」と体裁が似ている。「ビルと喫茶店特集号」の〈喫茶新潟〉は店主の故郷からの直球命名。行ってみたい。もう一冊、「中産練ビル特集号」も買った。

そこからの帰り、谷田川通りに2年前に閉店して以来ずっと空いていた店舗が工事中になっているのに気づく。前に置かれたチラシをもらうと、月末にあなご料理の店ができるという。この通りは飲食店不毛の地だが、がんばってほしい。うちから一番近い飲食店になるので、開店直後に食べに行ってみようと思っている。100円引きのチラシももらったし。

私の不調のせいで滞っていた『ヒトハコ』2号だが、やっと再開できるようになったので、編集部と地域編集者のみなさんにメールを出す。ほぼ半年、音沙汰がなかったのに、みなさん待ってくれていた。ありがたい。これからは止まらずに進めたい。そのほか、メールを書いたり、ネットで調べものをしたりしていると夕方になる。昼飯ははまぐりとベーコンのパスタ。

都築響一さんの有料メルマガ「ROADSIDERS' weekly」6月21日号の幻の名盤解放同盟「ディープ・コリアふたたび05 大田〜博多」を読み、そのぶれなさ、変わらなさに心震える。「爆音で流せ」として指定されたBGMのポンチャックは気がヘンになるほどの迫力で思わず音を下げた。サンシャイン池崎ではないけど、名盤解放同盟はすべての「でも、やるんだよ!」精神の生みの親なのだ。

CSで2011年のテレビドラマ「張込み」観る。たぶん2回目。犯人も元恋人(若村麻由美)も彼らを見張る刑事(小泉孝太郎)も、いまいち熱量が少ないのは現代風なのか。時代に合わせ設定を変えるのは構わないが、納得できないのは小泉孝太郎が1人だけで張込みすること。変える意味あるのか。西岡琢也の脚本は、追う刑事の側が闇を抱えているなど新機軸を打ちだそうとしている。それは認めるのだが、その改変を生かすために小泉孝太郎を1人で張り込ませるのは御都合主義すぎる。最初は2人で張り込んでいて、何か事情があり片方が抜ける展開もあったはず。確認して知ったのだが、原作では張込みするのは1人だけ。2人組にしたのは、野村芳太郎監督の映画版で、その後のドラマもそれを踏襲するものが多い。この点では西岡琢也の脚本は原作に忠実と云える。まあ、他の部分で原作を大きく改変しているが。