「ダムとわたし」を考える

明日29日は第10回不忍ブックストリート一箱古本市、その一日目です。会場はこちら。
http://sbs.yanesen.org/hitohako/ooya
千駄木の山側から不忍通りを根津方面に歩き、言問通りを鴬谷方面に上がるルートです。おおざっぱに云うと。
実行委員のトンブリンさんが、恒例のモデルコースを作成してくれました。ご参考までに。
http://bit.ly/bpeFZK


きょうの夕方まで降り続いた雨も上がり、明日は無事開催できそうです。足元が悪いかもしれないので、お気をつけのうえ、お出かけください。では、明日!


昨夜は不忍通りふれあい館の地下ホールで、大西暢夫監督《水になった村》(2007)を観る。岐阜県揖斐川上流にあり、ダム建設のために2008年に水に沈んだ徳山村の人びとの暮らしを記録したドキュメンタリー。と書けば簡単だが、この映画が与える印象はとても複雑だった。以下、上映後の監督のトークの内容も交えて、感想を書く。


大西監督は徳山村と同じ揖斐郡の出身だったが、同じ郡内でも徳山村に行くのは一日がかりという遠さだったという。徳山村がどんな村かを知ったのは、学校の上映会で観た神山征二郎監督《ふるさと》(1983)でだった。この映画は加藤嘉の唯一の主演作で、ぼくも好きな映画だ。じっさいに監督が徳山村を訪れたのは1992年、23歳のとき。そのとき、村にはまだ数組の家族が住んでいた。それから15年、この村に通い続けて、この映画をつくった。


最初はダムに対しての問題意識があったが、しだいに山村の人びとの生活を記録することに興味が傾いていく。じっさい、村の人びとの生活は質素で、機械をほとんど使わない。野菜や魚をとって保存食にし、長い冬をしのぐ。「ほとんどエネルギーを消費せずに生きている人たちの村に、巨大なエネルギーを生み出す施設をつくるという矛盾を感じた」と監督は云う。


このダム建設はすでに1950年代(?)に計画が始まっており、1980年代にはほとんどの住民が村を離れた。残った人々も、いずれは村がなくなることはよく判っている。それでも、山奥のワサビを採ると、来年のために新しいワサビを植えて帰るのだ。そして、彼らがとてもよく笑うこと。とくに、主人公ともいえる徳田じょさんは何かあると爆笑している。どうしてこんなに明るく笑えるのか。


静かな生活にも終わりがやってくる。じょさんの家は壊されて、燃やされる。パワーショベルが壁を破壊している横で、何か残しておくものはないかと探しているじょさんの姿はなんだかとてもシュールだった。


そして数年後、ダムは完成する。しかし、このダムに水が注がれるシーンを、大西監督は直接描かない。テレビの画面とナレーションで伝えるだけだ。そのとき、監督の視線は、村を離れた人々の町での生活に注がれている。保証金をもらい、集団移転地に家を建てた人々の生活は孤独だ。これまでの近所づきあいはなくなり、食べ物もスーパーで買うしかない。あるおばあさんが、「山から下りたら金ばっかりや。何も財産なくなってしまった」とつぶやく。監督の話では、「気がついたら、お金もなくなって、一人ぼっちになって、浦島太郎みたいだ」と話すおばあさんもいたという。


村ではあれだけ元気だった徳田じょさんは、町に移ってからボケてきて、監督が誰だったかも思い出せないし、村の家がいまでもあると思っている。子どもの頃の思い出だけが鮮明だ。村では監督に山ほど料理を出していたというじょさんは、この家では何も出すことができない。はめていた指輪をはずして、「これ持っていき」と云うじょさんは、滑稽だけど悲しい。


ダムという政策に反対するのも、受け入れるのも、コミュニティの破壊をもたらす。だからといって、必要なものをつくるなとは云えない。しかし、徳山ダムの場合は、周辺に水が十分あるため、完成後も使い道がなく、水を溜めっぱなしだというのだ。なんのための事業だったのか。


この映画と監督のトークは、ダムという巨大建造物がもたらす問題がけっして他人事ではないことを教えてくれる。ダムじゃないにしても、何か大きなものが、これまでの暮らしを一気に塗り替えることは充分ありうるのだ。まさに「ダムとわたし」の関係を考えるきっかけになった。終わってから、会場でパンフレットを買おうとしたら売り切れ。それで、初日に上映された《船、山にのぼる》のDVDを買った。帰って、そのことをtwitterに書いたら、nakabanさんからそのパンフのイラストを描いたと教えてもらう。また、大西監督には著書もあるということで、早速アマゾンに注文した。


水になった村

水になった村