銀座から高円寺へ

まだちょっと調子悪し。布団の中で、書評の本を読む。珍しく、この数日で3本・計6冊分の書評を書かなければならない。一度読んでいる本も、原稿の取っ掛かりをつかむために再読する場合がある。こういうときの読書は、どうしても無心にはなりにくい。


12時すぎに出て、東京駅へ。フィルムセンターに行き、成瀬巳喜男監督《舞姫》(1951)を観る。はじめて観る作品のツモリで来たが、途中、鎌倉の自宅でバレエを教えているシーンで、「あ、コレは一度観たコトがある」と気づいた。魅力的な脇役が出てこないせいか、どうも、イマイチな感じであった。〈スイス〉でカツカレーを食べる。ココは昼休みナシなのでいい。まだ時間があるので、コーヒーを取って、本の続きを読む。


4時、暮しの手帖社へ。不忍ブックストリートの記事の打ち合わせ。写真のベタ焼きを見ながら、レイアウトを考えていく。編集とライターが組んで、丁寧に仕事ができる雑誌に久しぶりに会えた、という気がする。ここんとこ、タイトルからリード、小見出しまで書いてください、という仕事が多かったからなあ。そりゃ、仕事ですから云われればやりますけど、雑誌のカラーや記事の性格を決めるのが編集者の仕事なのに、リードまで丸投げして自主性が維持できるのか、と思う。2時間ほどで終了。帰りに、こないだ話題になっていた、会社の近くにある、銭湯の跡地を見る。銭湯の建物は完全に壊されているのに、ナゼか壁面の絵だけがそのまま残っている。しかも、フツーに富士山を描いたペンキ絵ではなく、アールヌーボー風というか、山名文夫ふうの絵なのだった。


7時に高円寺へ。松井貴子さんと荻原魚雷さんに会う。北口の〈カフェ・アパートメント〉で、店長のSさんに挨拶。そこでしばらく話したあと、魚雷さんに連れられて、以前〈コクテイル〉があった小路の〈あかちゃん〉という店へ。カウンターだけの小さなバーだ。ぼくが渡した『サンパン』を松井さんが見ていたら、マスターが「それ、何の雑誌?」と訊いてくる。それから、一気呵成に、母の代から作家が出入りしてきたこと、『赤ちゃん』という店内雑誌を出していたこと(2号残っていて見せてもらったが、新田潤や久世光彦が寄稿していた)、1960年代の新宿のことなどを喋りまくった。固有名詞がバンバン出てくる。一人一人についてゆっくり聞きたいのだが、ハナシがあちこちに飛ぶので、口が挟めず。魚雷さんも「この店では将棋と山のハナシしかしなかったのに」と驚いていた。マスターの気炎に圧倒されたようで、店を出てから駅で解散。


往来堂書店〉の「不忍ブックストリートの選ぶ50冊」フェア、そろそろ折り返し地点です。最初好調だった、ぼくのセレクション5冊も出足が鈍っているようなので、この辺でちょっとテコ入れします(『釣れんボーイ』が売れないことをボヤいていたほうろうの宮地さんが、日記でそのことを書いたら、4冊も売れたそうな)。というワケで、今日は『消えた赤線放浪記』を。この本については、『レモンクラブ』2005年9月号で書いているので全文引用します。長いですけど、読んでみてください。そして、往来堂で買っていただければ幸いです。

木村聡が『赤線跡を歩く』(自由国民社、現在ちくま文庫)を出したのは、一九九八年。当時は廃墟や廃線など、日本の忘れ去られた風景を記録する写真集が次々と出た時期だった。昭和二十一年から売春禁止法が施工された昭和三十三年まで、全国各地に存在した「赤線」の街の風景、建築物を撮影した同書も、その流れのナカで生まれたと云えるだろう。


「はじめに」には、「◎無遠慮にカメラを向けたり、二、三人で出かけて写真のお宅の前で立ち話をしたり、指さしたりすることは絶対に避けてください。◎どうか一人でひっそりと出かけて、何かを感じて下さい。◎さっと通り過ぎて、嵐のように立ち去って下さい」という「お願い」があるが、本書を片手に物見遊山的に出かけた写真小僧が、赤線跡でトラブルを引き起こすことがあったに違いない。赤線跡のガイドブックを出すコトで、ひっそり残っていた街に無用な注目が集まってしまったのは、自ら招いた結果とはいえ、忸怩たるモノがあったのではないか。


新刊の『消えた赤線放浪記 その色町の今は……』は、戦前の遊廓、戦後の赤線から、ソープランド、ファッション・ヘルスと現在まで続く性風俗の「現場」を、写真とともにつづったルポである。「わけても興味深いのは、各地の遊廓跡や赤線跡で見られる、その後継ともいえる風俗の数々だろうか。遊廓や赤線そのままの形式の場合もあれば、飲食店のかたちをとったもの、女性とホテルに同伴できるスナックというように、さまざまな形態で色町の名残りを留めていることがある。そういった場所が『裏風俗』と呼ばれるようになって、若い世代の関心を集めているとも聞く」 つまり、本書では消えていくものではなく、いまでも生きている性の現場として、赤線跡を歩きなおしているのである。だから、本書では著者は、じっさいに店に上がって、女の子とコトをいたし、内部を観察する。
 

たとえば、大阪・飛田新地はどうか。ぼくも行ったコトがあるが、長屋のような建物の玄関の屏風の前に、白塗りした女性が座っていて、やり手のおばさんがおいでおいでをしている。自分で上がる勇気はもちろんナイが、あの屏風の裏はどうなっているのだろう? と思っていた。


「二階は思ったよりも奥行きがあり、広い廊下の両側に部屋の引き戸が並んでいる。引き戸の上にはそれぞれ凝ったつくりの飾り屋根が設けられていた。通された部屋は六畳ほどの広さで、入口の屋根のわりには変哲のない、黄土色をした砂壁の和室である。ガラスの座卓と座布団があるほか、ぬいぐるみや造花、郷土玩具などが並べられた棚があった」


ただ、著者は女の子について書くコトはあっても、行為そのものについて語るコトはない。せっかくココまで書いたのだから、もっとハダカになってほしいと思うのは、マジメな著者に酷だろうか。


むしろ、著者が本領を発揮するのは、その色町の成立事情を述べた箇所である。昭和初期の『全国遊廓案内』(故・田中小実昌の書斎にも、この本が備えてあった)や、赤線時代の『全国女性街ガイド』などの先行文献を丹念に読み、図書館では地方自治体の市史、タウン誌を調査する。色町の「今」が、どのような歴史、どのような変遷を経てできあがったのかを調べるのが楽しくて仕方ないらしい。


香川県高松のところでは、「貧しい農家が多かった讃岐地方では、娘たちがすすんで家を出て二号さん、つまりお妾さんになる習慣があった。(略)当時は、讃岐地方イコール二号さんの本場、ということが定説のようになっていたらしく、高松あたりでは『二号さんブーム』なるものまで起きていたらしい」そうだ。ホントかよ。


また、死語になったコトバも説明されている。戦後の小説に、ときどき「パンマ」というのが出てくる。ナンだろうと思っていたが、本書で「パンパンとアンマの合成語」だと知った。ちなみに、手元にある、田中小実昌監修『客商売の隠語符牒』(新風出版社)を調べたら、「『せんば』(温泉地)の女アンマで、実際には売春をおこなう。ただ『あんま』という場合も、『パンマ』をさす場合がおおい。パンパン・アンマの略」とあった。なるほど。


本書の写真は、もちろんスバラシイ。赤線時代の建物だけでなく、まだ時代の新しいソープランドの看板や、隣の民家、警察の注意書きなど、写真の隅々まで食い入るように眺めてしまった。中山銀士の装幀は、その写真の良さを最大限に引き出していると思う。


ところで、つい数日前、奈良の大和郡山に行った。本書には、この土地にはふたつの遊廓跡が残っているとあったが、用事が長引き、訪れることができず残念。著者が望むように、「さっと通り過ぎて、嵐のように立ち去」るツモリだったんだけど。


以上です。文中に田中小実昌が出てきたのを憶えておいていただいて、明日のテコ入れに続きます。