短い文に触れて

今日も地道に仕事場で過ごす。作業と作業との合い間に、エアスポットのような時間が生れる。そのときには本を読むよりは、雑誌をパラパラ拾い読みするほうがイイ。ちょうど編集工房ノアから『海鳴り』第17号が届いた。忘れた頃に出る小雑誌だ。山田稔「少年の港」、杉山平一「三好達治の詩と人柄」など。社主の涸沢純平さんの「たわごと少々」の末尾にこうある。

今、平凡社にいた石塚純一という人が書いた『金尾文淵堂をめぐる人びと』を読んでいる。この大阪で生れた出版社について、かねがねもっと知りたいと思っていた。良く調べられた本で、とくに徳富蘆花とのかかわりが面白かった。自分の気に入った本を創ろうとする「自分出版」に対する、金尾種次郎の著者、装幀画家への打ち込み方に、敬服する。
ノア三十年、残りの年月を、目覚めて、と思うが、右のようなことでなにやらわからなくなっている。


編集工房ノアが創立されてから30年を迎えたのだ。今後の新刊としては、山田稔『八十二歳のガールフレンド』、大谷晃一『大阪学余聞』、港野喜代子詩集(ノアの最初の本は、この詩人の本だった)、山田稔編の天野忠エッセイ集などが予告されている。涸沢さんの「自分出版」はまだまだ続きそうだ。なお、上の文中の「右のようなこと」の内容は、じっさいの文章にあたってみて下さい。『海鳴り』はたぶん〈書肆アクセス〉で無料配布されるハズです(いつ入るかは知りませんが)。


ウチに帰ってから、『ぐるり』の連載を書いて送る。今回は金沢で聴いたよしだよしこさんのこと。そのあと、毎日新聞の夕刊を見たら、「マンガの居場所」というコラムで、夏目房之介がJR福知山線の事故で、マンガ家の雑賀陽平が亡くなったコトに触れていた。

COMに原始人もので入選し、『あっぷる・こあ』という同人誌、『漫金超』というマイナーなマンガ誌などに作品を発表していた。(略)
そんな、すっとぼけた味のマンガを乾いた線で描いた。彼のマンガには当時の青年のシニシズムが知的な「笑い」に結晶していた。センスがよく、人間への愛のあるツッコミの距離感があって、僕は好きだった。


たしかに『漫金超』にこのヒトのマンガが載っていたという記憶があった。慌てて、雑誌を積んである山の下から、『漫金超』を引っ張り出した(ホントはどこかに、ヒトからいただいた同人誌『あっぷる・こあ』もあるハズなのだが、見つからなかった)。やっぱりというか、山が崩れ、タイヘン悲惨なことになった。せっかく雑誌を出しても、机の上に広げるスペースはなく、膝の上で開くしかない。ついでだから、各号で雑賀氏が描いたマンガを紹介しておこうか。


創刊号(1980年春) 「3193より2316――時には難解なテーマと共に――」
2号(1980年夏)  「ナダ」
3号(1981年春)  「ここほれワンワン」
4号(1981年秋)  「トラブルをさけるな」
5号(1983年夏)  「パリから手紙を出しています」


「ナダ」はいしいひさいちの「地底人」シリーズを思わせるSFナンセンス。「ここほれワンワン」は時代劇寓話。「トラブルをさけるな」は説話風。最後の「パリから手紙を出しています」は、パリでの過しかたを描いたエッセイマンガで、これは夏目氏が「のちの画廊経営者に」と書いているのに一致する。夏目氏は、雑賀氏のことを「こんな奴がいちゃかなわねぇな」と思っており、「週刊朝日」での「デキゴトロジー」以降の夏目氏の仕事も、「もし雑賀が参加していたら立場は逆になっていたかもしれない」(じっさいには本業が忙しくてできなかった)と書く。また、いしかわじゅんも「秘密の本棚」(http://www.comicpark.net/ishikawa050509.asp)で、「ナイフのような怖さのある描線だった」と回想している。いまは描いていないとはいえ、何人かの記憶には確実にとどまる仕事をしたマンガ家が、この世から消えてしまったのだ。


こういった短い文に触れているウチに、12時を回ってしまった。やらなきゃならないコトは、まだたくさんあるんだけど。