図書館の書庫で懐かしい名前に

8時半起き。今朝も〈M〉のうどん。「釜玉うどん」で食べてみたら、ウマかった。外は雨。デザイナーのIさんに地図の色校を戻し、バスで早稲田へ。昨日が入学式とあって、大学の周辺はにぎやか。グランド坂の〈ミキランチ〉で500円のハンバーグ定食を食べる。飽きの来ない味とほどほどの量がイイ。


早大図書館へ。先日から館内でインターネットが使えないかと、図書館のサイトをあれこれ見ていたら、大学発行のIDがあればできるようだ。案内カウンターで聞いてみたら、卒業生でも発行されるらしい。本部の7号館にあるITセンターみたいなトコロに行くと、受付の女性に「在学中にアドレスをお持ちではないですか?」と訊かれる。パソコン通信が普及するはるか前の1990年に卒業したのに、そんなの持ってるワケないっしょ。校友会に問い合わせてもらい、さらに本人確認で手間取り(だって、「卒業時の住所はわかりますか?」なんて訊くんだよ。覚えてないですよ)、ようやく登録申請書をメールで送ってくれるコトに。これで次からは、館内で有線LAN(なぜか無線ではないらしい)が使えるようになる。ちょうどこの4月から、開館時間を夜10時まで延長したことでもあり、利用する機会が増えるかも。


地下の書庫に潜り、書誌事項を確認するために、全集や単行本を検索して書架からとってきて、見終わったらまた戻して、という作業を繰り返す。3時間で50冊近く参照したのではないか。そのひとつに、ぼくの古巣であるゆまに書房が出していた山内祥史編『太宰治論集』同時代篇、全10巻・別巻1というのがあった。太宰が生きていた頃や亡くなった直後に、太宰について書かれた文章をまとめたもので、別巻の人名索引が役に立った。刊行は1992〜1993年で、そのあと作家論篇、全9巻・別巻1が出ている。


当時、ぼくはゆまにのバイトであり、この本のために図書館で調べ物をした記憶がある。太宰には別に興味がなく、当時は辛気くさい企画としか思わなかったが、いまとなってみると貴重な仕事である。山内氏の解題を見ていたら、いくつかの資料について、「この文献の入手に際しては、奥寺純子の助力を得た」との文言がある。奥寺さんは、ぼくがバイトで入ったときから編集部にいた女性で、当たりの柔らかいヒトだったが、企画力と実行力に優れており、編集部の要だった。のちには「編集長」だったような気もする。ぼくは、バイトとはいえ、すぐ自分の企画を通してしまうような生意気なヤツだったが、具体的な編集作業については奥寺さんに教わった。奥寺さんの仕事には、ほかに、『近代雑誌目次文庫 国語・国文学編』というのもあり、国語雑誌・国文雑誌の現物に当たり、目次をとっていくという、非常に時間のかかるものだった。いま考えてみると、ほかにやりたい企画もあっただろうに、会社の屋台骨を支える手堅い企画ばかりを、奥寺さんはやってくれていた(その間、ぼくは宮武外骨の雑誌の全復刻なんて売れない企画を喜んでやっていた)。ぼくがゆまにを辞めて、『季刊・本とコンピュータ』のスタッフとなった数年後、奥寺さんは病気で亡くなった。まだお子さんが小さかったハズだ。しばらく忘れていた名前に、書庫の奥で再会したことに、感無量なり。


5時前に切り上げて、退館。〈古書現世〉で取り置きの本を買う。旬公にあげる食肉関係の資料である。セドローくんをお茶に誘い、いつもの〈シェ・ヌー2〉に向かおうとすると、「あ、あの店、先月閉店したんですよ」とのこと。いつの間にか閉まっていたそうだ。前に〈シェ・ヌー〉があったときも、突然閉店して、しばらくしたら〈シェ・ヌー2〉に変わっていたのだ。〈シェ・ヌー3〉は……ムリかなぁ。しょうがないので、モスバーガーに入って1時間ほど話す。作成中の一箱古本市の店主配置リストを見せると、屋号やPRにいちいち大ウケしていたので、手ごたえを感じる。セドローくんと別れて、またバス停まで歩いて、上野松坂屋行きのバスに乗る。護国寺の交差点で、こないだ路上でペシャンコになっていた携帯電話がまだあるのに気づく。誰のケータイかは知らないが、この中に入っているメモリーはこのまま風化していくのであった。いと寂し。


晩飯は、焼魚と明太子など。10時から関西テレビ制作の《あるある大事典2》の検証番組を見るが、予想以上のショッパさだった。とくに捏造を実行した、下請けプロダクション(名前が「アジト」というのが笑える)のディレクターが、まったく悪びれてないのがスゴかった。顔は映らないが、ロンゲでいかにも業界人という風体。番組全体の報道倫理とか視聴者への報道責任とかの大義名分が、コイツ一人の映像で吹っ飛ぶほどの存在感があった。逆にいえば、こいつの存在を隠蔽しなかっただけ、関西テレビに良識があったというべきか。