日常が戻ってくる

昨日の〈古書ほうろう〉での津野海太郎さんとのトーク、無事終わりました。ずっと雨が降っていたのですが、40人近くのお客さんが来てくれました。知った顔、かなり多し。休憩を挟んで2時間やりましたが、雑誌の現物を見せながらだから、なかなか忙しかったです。後半には小沢信男さんに出てきていただき、『新日本文学』の頃の津野さんについて話していただきました。詳しいことは数日後に出る「書肆紅屋」さん(http://d.hatena.ne.jp/beniya/)のレポートにお任せです。


来た人には面白かったと云ってもらえたけど、まあ、師匠といってもいい人ですし、これまでの「十番勝負」でいちばん緊張しました。途中、あたふたしたところもありました。でも、一対一で会っているときには聞けなかったり、はぐらかされたりしたコトも聞けたので、やってよかったと思います。打ち上げの後、ほうろうのメンバーと飲み、1時すぎにウチに帰ってからぐっすり眠りました。


朝8時半に起きて、部屋の片付け。それから西日暮里に行き、事務所の片付け。今夜、旬公が帰ってくるので、少しはスペースを広げておかないと。とはいえ、今回は年末進行の合間に、原稿を書くことからの逃避で、結構片づけしていたので、さほど時間は掛からなかった。


『SPA!』の書評で取り上げる本の関連で、裁判員制度の新書を読む。反対派の云っているコトも賛成派が云っているコトもかなり極端で、新しい制度を導入することの大変さが判ってけっこうオモシロかった。反対派の筆頭は『裁判員制度の正体』(講談社現代新書)の西野喜一で、「現代の赤紙」とまで云い、裁判員になることから逃れるテクニックを教示している。その中には、きわめて「難儀」な人を装えとか、その事件について告発せよ(関係者とみなされるから)とか過激な方法がある。ちょっとこれは許しがたいと思うのは、以下の部分。

また、自分の住んでいる地方で何かの大きな事件が発生し、すでに裁判員候補者としての通知が来ているため、いずれ裁判員としての呼び出し状が来る恐れがある、事前に避ける手はないか、というのであれば、その事件と何らかの接点を作り、自分なりのイメージを作っておくという手があります。具体的には、事件現場を見ておいたり、犯罪の被害者やその家族、あるいはその近隣者に会って話を聞いておくことです。すでに事件現場を見たり、事件関係者に接触したりして、公判開始前から当該事件にかんする何らかのイメージをすでに形成している、という者を裁判員から排除しない裁判長はまずいないでしょう。


裁判員制は憲法違反であり、国民の権利を圧迫するという論旨の人が、裁判員になることを逃れるために、犯罪被害者やその周囲に接触せよと勧めるのは、めちゃくちゃな矛盾だ。そんな理由で自分に接触して来られたら方はたまらない。事件現場をうろつかれることで、捜査が混乱するコトもあり得る。無意識に、いまの制度を護るためなら、被害者の権利なんてどうでもイイという本音を露呈しているようだ。


しかし、では賛成派がまともかといえば、木村晋介監修『激論!「裁判員」問題』(朝日新書)に出てくる弁護士・高野隆の発言を読む限り、そうは思えない。裁判員制にしたら裁判が変わるに違いないという、あまりにも素朴な願望を主張しているだけに見える。きちんとした根拠も示さずに、この制度が決まってしまったことに不安を覚える。


資料を読むのに時間がかかり、原稿には取り掛かれず。3時に出て、新宿へ。〈紀伊國屋書店〉裏の〈フォレスト〉マンガ売り場で、小林まこと青春少年マガジン1978〜1983』(講談社)、辰巳ヨシヒロ『劇画漂流』下巻(青林工藝舎)、滝田誠一郎ビッグコミック創刊物語 ナマズの意地』(プレジデント社)を買う。グーゼンだが、どれもマンガ雑誌の回想ものだ。最後のはマンガではなくルポ。『青春少年マガジン』は連載で愛読していて、フリースタイルの『このマンガを読め!2009』のアンケートで挙げたかったのだが、今年から連載中のは除くことになったので外した。


歌舞伎町の〈シネマスクエアとうきゅう〉で、ジョニー・トー監督《エグザイル/絆》(2006・香港)を観る。傑作! 前日譚ともいえる《ザ・ミッション 非情の掟》(1999・香港)が大好きなのだが、それを超えたかも。こんどの「居眠り名画座」で書こう(居眠りしなかったけど)。


山手線で品川、京急に乗り換えて羽田空港。送迎口で旬公が出てくるのを待つ。ナニを買い込んだのか、やたらに重いバックパックを背負わされ、モノレールと山手線で西日暮里に帰る。千駄木に帰り、〈三忠〉で晩飯。三色丼がうまい。忘年会の客でうるさくて、話ができなかったが。コーヒーを飲み、お互いあったこと喋り、1時過ぎには寝る。二週間ぶりに日常が戻ってきた。