電車で読む「書誌鳥」の論文

8時半に鳴った目覚ましを止めて、30分先にセットしたツモリが間違えたらしく、眼が覚めると9時半。飛び起きて、急いで仕事場へ。もろもろ連絡のうちに時間が過ぎる。編集の仕事は、そのかなりの部分が電話か手紙かメールでの連絡なのであった。今回の本は、著者が複数いるほか、カメラマン、編集協力者、取材先、デザイナーなど連絡すべき先が多い。単行本というよりは、雑誌をつくっている感覚だ。昨日公開した「『ブックカフェものがたり』公式ブログ」(http://kawasusu.exblog.jp/)に、さっそく多くのアクセスがある。このブログを見た方から、ぼくが把握してないブックカフェの情報が数件寄せられている。整理してから順々にアップしますので、よろしくお願いします。


1時半に外出。仕事場を出て数歩歩いたところで、前の道を出てきたヒトに眼が留まる。なんか、矢部登さん(『サンパン』で結城信一や清宮質文について執筆されている)みたいだなあ。スグそこの郵便局に行くらしく、封筒を持っている。矢部さんもどこかの出版社でお勤めだと聞いているので、ひょっとして……と思っているウチに、行ってしまった。〈ふくのや〉で昼飯を喰って、外に出たら、ちょうど郵便局から出てきた矢部さんのそっくりさんとすれ違った。うーん、ご本人だったのでしょうか。ヒトを見分ける眼に自信がないと、こういうとき困る。今度お会いしたら聞いてみるか。


竹橋から東西線に乗る。車中で、昨日から持ち歩いている抜刷を読了。「【書庫】*書物のトポス=書物のトピック*」(http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/)の「書誌鳥」こと森洋介さんが、「『文藝春秋』附録『文壇ユウモア』解題及び細目――雑文・ゴシップの系譜学のために――」(『日本大学大学院国文学専攻論集』第2号)という論文を送ってくださったのだ。論文の抜刷を配るなんて風習、まだあったんですね。森さんに最初に会ったとき、『文藝春秋』の別冊附録として1931〜33年に出された『文壇ユウモア』(誌名は『附録 文藝春秋』→『附録 文壇ユウモア』→『附録 文壇ユーモア』)という小雑誌のハナシを聞き、興味深くおもっていた。だから、送られてきたものをすぐに読み始めた。森さんは、印刷媒体でもデジタルメディアでも、正字・正かな遣い(促音拗音は小さくする)で表記するというルールを持っているのだが、べつに読みにくいというコトはない。それどころか、論文という形式を踏んでいながら、ちょっとボヤいてみせたり、道化てみせたりする文章の芸と、ひとつひとつが超短いコラムといえなくもない精密かつおもしろい注のおかげで、たのしく読み終えるコトができた。


わたしゃ、近代文学の研究者でもなければ評論家でもないので……とあらかじめ逃げをうっておいて、自分の理解した範囲で書くしかないのだが、この論文には、型破りな点がいくつかある。『文壇ユウモア』は、故・保昌正夫氏を除けば、あまり注目されてこなかった。そういう題材を扱うとき、研究者は新発見を誇りがちだ。森洋介も1−3「佚文発掘――有名性の再認」で、『文壇ユウモア』に直木三十五徳田秋声、千葉亀雄、川端康成らの全集等への未収録文を挙げる。そして、それぞれの作家の研究者がこれらの文章を見落としていることに対し、「足元の草むしり」が足りないと戒める。


ココまでだったら、たんにイヤミな物知り坊主にすぎまい。しかし、森洋介は、「右はいっぱし研究者ぶってその儀式の真似事をしてみたのみ、様になってをるまい」と云ってのける。そして、次のように述べる。

正味の話が、如上の佚文なぞは『文壇ユウモア』全体から見ればごく一部に過ぎない。細目を見て戴ければ一目瞭然。大半を占めるのは、無署名や、匿名や、或いは本名であれ無名に等しい者たちによる、雑文・ゴシップ・軽評論その他等々々【エトセトラ】である。従来の雑誌紹介、殊に細目ではなく主要目次に留まるやうな場合には、まづ省略されがちだった項目ども――その意味でも『文壇ユウモア』といふ雑誌内雑誌は、附録【おまけ】を本篇【メイン】にしたものだった。折角細目を作ってはみたが、かういふ無名性乃至匿名性(anonimity)に充ち満ちた誌面では、目次といふ題名と執筆者名との羅列に対して、知ってゐる作家の名――著作集が出たり書誌が編まれたりするやうな――を見出すことで読み解くといふ常套手段は、通用しない。
(原文は正字、以下同。【】はルビ)


では、その「常套手段」を排して、森洋介はどういうアプローチを試みたか。ごく大ざっぱにまとめると、(1)有名人(作家・ジャーナリスト)がこの雑誌で何を書いたか、ではなく、どのように語られたか(ゴシップ化されたか)、(2)その雑文・ゴシップの場に、読者がどのように参加したか、(3)この雑誌で、有名性に依存せず「正典化」されない「匿名批評」がいかに活躍したか、を論じていく。そして、『文壇ユウモア』を、「草創期『文藝春秋』の復興であると同時に、再編される文壇意識を反映して変容しつつあった雑文・ゴシップの系譜を、新潮社系の『文学時代』や『近代生活』等から半ば時期をずらして受け止めながら、次代の『文芸通信』『月刊文章』等へとバトン・タッチする位置にあった」と評価している。


以上のまとめは正確を欠いているだろうし、細かいところに入り込むほどおもしろくなるのがこの論文の特長だと思うので、ぜひとも現物を読んでいただきたい。抜刷がまだ余っているかはぼくの知るところではないが、読みたいという熱意のある人にはナンとかしてくれるでしょう。そのうち、サイトに載るかもしれませんが。とにかく、論文という形式の文章を読んで、久しぶりに知的好奇心を刺激された。心ある(助成金つきのセンセイたちの論文集を機械的に生産しているのではない)国文学関係の版元は、森洋介氏に注目されたし。


吉祥寺で降りて、〈ブックオフ〉を覗く。いつの間にか、二階でも営業していた。そこから井の頭通りを三鷹に向かって歩く。10分ぐらい歩いた頃、右側に〈ブックステーション〉(だったかな?)という店が。閉店セールとあったので、安いかなと思って入ってみたら唖然。よくある文庫が300円、400円で、品切れ(といっても珍しいもんじゃない)が500円、600円と付いている。状態もおせじにもイイといえないモノばかり。わずか5分しかいなかったけど、コレじゃあ、ね。デザイン評論の臼田捷治さん宅にうかがい、5時まで話す。寡黙な臼田さんと2時間も喋ったのは、自己記録だなあ。


今度は三鷹まで歩き、南口へ。〈上々堂〉に行くと、『おに吉 古本案内』第3号が出ていた。恒例・ふるほんの歌は上野茂都さんの「仏文節」。エッセイは穂村弘三浦しをんみやこうせい南陀楼も「一九九〇年のおに吉自転車ライフ」という短文を書きました。ここでは店の名前を省いたけど、自転車で通った吉祥寺のビデオ屋は〈ジャンボシアター〉。井の頭通りにあったのだが、さっき歩いたときに見たら、やっぱり消えていた。「古書モクロー」の先月の売上と、『おに吉』の原稿料(もらえると思ってなかったので、ウレシイ)をいただいたので、山川方夫『愛のごとく』(新潮社)1200円、を買う。


そのあと、駅のほうに戻って、〈文鳥舎〉(http://www12.plala.or.jp/bunchousha/)へ。まだ店の看板を出そうとしているトコロに入ってしまう。こないだは30分しかいなかったが、この店、気取ってなくて静かで、好きだなー。カウンターに座れば大森さんや佐藤さんとハナシができるし、本を読みたければテーブルを選べばいい。大森さんは編集者でもあるので、こんな本をやりたいというハナシをする。来週は、牧野信一朗読会のファイナルで、古井由吉池内紀対談がある。ぼくは関西にいて行けないけど、岡崎さんやほかの知り合いが聞きに行くそうです。この店は『ブックカフェものがたり』にも登場しますので、よろしく。


ウチに帰り、テレビでメル・ギブソン主演《ペイバック》(1998、米)を観る。つまんなきゃ途中でやめようかと思っていたのだが、意外とオモシロイ。リチャード・スターク(=ドナルド・E・ウエストレイク)の「悪党パーカー」シリーズの映画化で、乾いた演出と、現代っぽくない街を映すカメラがイイ。ハードボイルドって、原則に忠実すぎるところがときどき笑えるのだが、この映画でもそういう笑いのツボがちゃんと用意されていた(7万ドルへのこだわりとか)。閉店間際の〈古書ほうろう〉に行き、『おに吉』を渡す。旬公が「あっ」と云ってCDコーナーに駆け寄る。ナニかと思えば、ジャケットに牛の人形(ヘンな色でペインティングされたもの)が使われているのだ。こないだ、彼女がアメリカで買ってきた人形とソックリ。[CHICAGO 2018…It’s Gonna Change]という二枚組のオムニバスで、ジム・オルークほかシカゴ音響派(っていうの? よくワカランけど)が参加してる。〈サミット〉に寄って食料を買い、ウチに帰る。